広橋百合子
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広橋百合子

選手情報
フルネーム廣橋百合子[1]
ラテン文字Yuriko Hirohashi
愛称ユリッペ[2]
国籍 日本
競技陸上競技
種目走高跳
所属羽咋高女日女体専
大学日本女子体育専門学校(現・日本女子体育大学
生年月日1916年5月12日[3]
出身地 日本石川県羽咋郡北荘村小川[4](現・宝達志水町小川)
居住地 日本石川県河北郡津幡町[5][6]
没年月日 (1977-04-26) 1977年4月26日(60歳没)
死没地 日本石川県河北郡津幡町津幡ロ 河北中央病院[6]
身長150 cm[7]
体重40 kg(1932年)[7]
オリンピック8位(1932 ロサンゼルス[5]
国内大会決勝優勝4回[8]
自己ベスト1m52(1932年)

獲得メダル

女子陸上競技
日本
日本選手権
金1931 東京走高跳
金1933 東京走高跳
金1934 西宮走高跳
金1937 東京走高跳


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広橋 百合子(廣橋 百合子[1]、ひろはし ゆりこ、1916年5月12日[3] - 1977年4月26日[6])は、走高跳を専門とする日本陸上競技選手、学校教師結婚後の姓は長井(ながい)[6]石川県羽咋郡北荘村[4](現・宝達志水町)出身で、大島鎌吉と並ぶ石川県初のオリンピック選手である[9]。元日本記録保持者[10]

黎明期の日本女子走高跳を支えた人物で、3度オリンピック出場を目指したが、実際に出場が叶ったのは1932年ロサンゼルスオリンピックの1度であった[11]
経歴
生誕からロス五輪まで(1916-1932)

1916年(大正5年)5月12日[3]、石川県羽咋郡北荘村小川[4](現・宝達志水町小川)にて5人きょうだい(1男4女)の三女として生まれる[9]。実家は照覚寺という真宗大谷派仏教寺院で、父は僧侶、母も羽咋の寺から嫁いだ人であった[1]。父は大谷派の輪番で家を空けがちで、母が家を守り子育てを行った[1]。幼少期は実家の寺の境内や1kmほど離れた砂浜海岸遊び場にしており、他のきょうだいと同様にかけっこが得意であった[9]。ジャンプも得意で、周囲が眉をひそめるのも気にせず短パン姿で飛び跳ねていた[9]。さらに柔軟性が高く、片脚を垂直に上げて、母の肩を足で叩いて叱られることもあった[9]

1929年(昭和4年)、石川県立羽咋高等女学校(羽咋高女、現・石川県立羽咋高等学校)に入学し、走高跳を始める[12]はさみ跳び(またぎ跳び)の技法は独学で身に付け、1年生の頃は1m15が自己ベストであった[9]。2年生になった1930年(昭和5年)10月に初めての大きな競技会・石川県下女子中等学校競技会に出場し、1m29.5をマークした[13]。3年生になった1931年(昭和6年)、同大会で1m45を跳んで当時の日本記録まで後1cmに迫り[9]明治神宮体育大会では1m46を記録し、相良八重土佐高女)を押さえて日本女子走高跳十傑のトップに立ち、期待の新星と目された[13]。そのうちの1人に二階堂トクヨがおり、ある大会で準備体操をしていたところを二階堂が見つけ、体操する姿のきれいさから自身の経営する日本女子体育専門学校(日女体専、現・日本女子体育大学)への入学を勧めた[14]。この時、まだ進学など考えてもいなかったが、とりあえず「よろしくお願いします」と答えた[14]

1932年(昭和7年)5月、ロサンゼルスオリンピックの予選会で1m48の日本新記録をマークして日本代表に選出された[9]陸上競技日本代表としては渡辺すみ子(当時15歳)に次ぎ柴田タカと並ぶ16歳という若さでオリンピック日本代表となった[15]。女子選手にはユニフォーム正装用の衣装着物ドレストランクまで支給され[13]、1932年(昭和7年)6月11日に大勢に見送られて羽咋駅を出発[4]6月30日に他の選手とともに昭和天皇の下賜金で仕立てられた「恩賜のブレザー」を着て東京市中を行進し、横浜港からロサンゼルスへ向かった[13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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