広東システム
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広東のファクトリー(1805年 - 1806年)

広東システム(カントンシステム、:Canton System)は、中国清朝中期から後期(1757年 - 1842年)における、清国とヨーロッパ諸国(のちに米国も加わる)との間で行われた貿易管理体制である。「カントン体制」「広東貿易体制」などとも。ヨーロッパ商人との交易を広東広州)1港のみに限定し、独占的商人を通じて行った貿易体制であり、日本江戸時代のいわゆる「鎖国」体制における長崎出島での管理貿易体制(長崎貿易)と類似する。従来の中華帝国の交易スタイルであった「朝貢」貿易の一形態と見なされることも多いが、実際は朝貢形式の儀礼コストを省略し、広州現地における商人どうしの通商行動を重視した「互市」システムと理解する方が的確である[1](後述)。
前史:広東システム成立までの軌跡
海禁から互市へ

広東(広州港)は古来から南洋インド洋諸国に対する貿易港として機能していた。しかし清朝が成立した当初は、鄭氏政権などの反抗勢力が外国商人と連携することを恐れたことや、明朝の対日政策を継承して、日本倭寇の拠点として警戒したことから、海外交易を制限する海禁政策がとられた。

17世紀終盤になると三藩の乱の平定(康煕20年(1681年))、鄭氏政権の帰順(康煕22年(1683年))など国内の安定化に伴い、康煕帝1684年に海禁を解除し、海関(税関)の設置などの措置を行った上で、外国との貿易を公認した[2]。当初はマカオ(澳門)など4つの港が外国と互市(=貿易)を行う場所と定められた。日本・カンボジアをはじめフランスオランダなどの「互市」諸国は従来の朝貢国(正朔=暦法を奉じ、清朝の年号を用いて臣従する国)とは異なり、中商(国内商人)と夷商(外国商人)が港を通じて交易を行う関係として把握され、区別された[3]
広東一港体制へ

外国との交易をめぐり、広州を管理する粤海関1685年設置)は、?海関の管轄下の厦門、浙海関の管轄下の寧波と競争関係にあった。18世紀半ばには、各地の物産が多く集まる江南を後背地とする上、取引高の大きい対日本交易を担った寧波が優位に立つ。浙海関は寧波の行政区内になる舟山群島定海に、西洋の船舶が寄港する区域を設けたため、英国商人たちが定海に赴いて、生糸などを買い付けるようになると、広州の衰退は目に見えてきた。そのため、広州に利権をもつ満洲旗人や官僚などが朝廷に働きかけ、乾隆22年(1757年)に乾隆帝は、西洋人との交易の窓口を広州に限定するようにと上諭を出したのである。[4][5]。貿易港が広州だけに制限された理由は、西洋船を広州に集中させることで、利益は広東だけにとどまらず、江西省など広範囲に及ぶことも上諭のなかで理由の一つに挙げられている。当時、江南はすでに日本との交易(長崎貿易)をほぼ独占しており、それに加えて西洋人までも寧波に集中すれば、華南が取り残され国全体のバランスが崩れる可能性があったためである[5]
広東十三行と関税徴収システム詳細は「広東十三行」を参照

中国では牙行と呼ばれる仲買人の活動が活発であり、明代後期に海禁が緩和され国外貿易が許された際にも、数ある牙行の中から一部の者に取引を集約させ同時に徴税も代行させ、彼等を通じて全ての商人を把握する方策が採られた[6]。明朝の跡を継いだ清朝もまた同様に、国内交易・国外貿易を問わず徴税に当たる牙行を当局が設定し、徴税と牙行の商取引が一体化した制度を敷いていた[7]。広州でこうした牙行は数十行あったが、康煕58年(1720年)以降、西洋貿易の取り扱いは広東十三行と呼ばれる特権商人ギルド [注釈 1]に制限された(「行」はギルド・グループを意味する)。

こうした制度はヨーロッパ人の目には前近代的なギルドの独占、あるいは保護貿易政策と映った。しかし重商主義のもとで国内産業の保護政策が採られていた当時のヨーロッパ諸国とは異なり、黙っていても海外へ物産が売れる清朝では貿易に関する諸政策は国内産業の保護というより平和の維持や治安維持の側面が強く[8]、広東十三行による貿易の独占も課税強化のための施策であった。

上記の乾隆帝上諭では、ヨーロッパ諸国との貿易を広州1港に制限すると同時に、貿易を特権商人のみに認めた[9]、すなわち「西洋商人を対象に、交易港を広東1港に限定し、特権商人に貿易を行わせる体制」であり、この上諭をもって広東システムの成立とする。
広東システム下の外交・通商
保商制度 広東のファクトリー(夷館)。(左から)デンマークスペイン、アメリカ、スウェーデン、イギリス、オランダ。1780年

広東システム下でヨーロッパ商人は、西洋からの航海を経て、ポルトガルが居留権を得ていたマカオに滞在した後、貿易シーズンである10月から1月に限り、行商人が設置した広州港の夷館区域(西洋商人からはファクトリー(Canton Factory)と呼ばれた外国人居留区域)内に移った。この間、ヨーロッパ商人たちは夷館区域内に活動が限定され、清国の国内商人との直接取引は禁止された。貿易に際し、広東十三行の中から1行を「保商(security merchant)」に指名する必要があり、指名された保商はその外国船の交易に伴う納税、現地の清朝当局との連絡・交渉など一切を受け持ち、外国人と清国政府との直接的な交渉は禁じられた[9]。ヨーロッパ人に提示される商品価格は関税のほか、はしけや倉庫の使用料等の諸経費を含んだものであったがその詳細な内訳は開示されず、ヨーロッパ人は税の詳細を知る機会は与えられなかった[10]。またヨーロッパ人は保商の認可の下でそれ以外の者とも取引することは出来たが、その際には保商に一定の金額を支払わなければならなかった。

清朝が保商制度を敷いた目的は課税強化にあった。広東十三行ら牙行は自身の取引と同時に取引相手から徴税を行い、それを海関に納税することになっていた。しかし商業に対する法的保護が十分ではなかった清朝では大資本の集中・蓄積が困難であって牙行は十分な余剰資金を持たず[11]、実際には購入品を転売しその代金から関税を捻出していた[12]。一方、当時イギリスが輸出に力を入れていた毛織物製品は中国では需要が薄く、牙行が輸入品を売りさばくまでに時間を要し、滞納や一部未納等、税の安定的納入に問題が生じていた。こうした状況に対し、資力の豊富な牙行に納税の責任を負わせ、関税納入の安定化を図ろうとしたのが保商制度であった。

この体制は保商に権限が集中するとともに、何らかのトラブルが生じた場合、清当局がその責任を保商に転嫁する傾向を生じ、後にアヘン密輸が激増した時にも有効な禁止策が打てない理由となっていく。
華夷秩序と近代的条約の齟齬 1830年.広州

広東システム下では、輸出品(生糸など)に量的な制限が儲けられたり、輸出禁止措置(最高級生糸、米、亜鉛など)もとられ、外国側と紛争が発生した際には、その国との貿易が一時的に停止された[13]。このような一方的な制限が行われたのは、当初清側では「華夷秩序」に基づいてこれらヨーロッパ諸国を「朝貢国」と見なし、商人との間で行われた貿易も「朝貢貿易」が変形したものと位置づけられていたことに由来する[9]。ヨーロッパ商人は1759年制定の「防範夷人章程」という規則によって生活や行動が厳しく制限されていた[9][14]。このため、自国と外国商人の通交を禁ずる、いわゆる「海禁」政策や、従来型の朝貢貿易の典型例と見なされることも多いが、実際には広州港を通じた限定貿易体制に近く、税関にあたる粤海関監督を初めとする清国官僚と、保商と呼ばれる広東十三行の中から選ばれた商人に責任を負わせる半官半民的な管理貿易体制であり[9]李氏朝鮮琉球などの朝貢国とは異なる互市として位置づけられていたことが『皇朝文献通考』『大清会典』などの史料から窺える[3]。これは日本の江戸幕府オランダ東インド会社に対して貿易港を長崎出島1箇所に限定して、行動を制限しつつ管理貿易を行っていた「出島体制」に対比でき、カトリック宣教師の排除という共通点も見られる[15]


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