広幡忠礼
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 凡例広幡忠礼
広幡忠礼
時代江戸時代後期?明治時代
生誕文政7年6月28日1824年7月24日
死没明治30年(1897年2月18日
官位正二位(維新後に従一位)、内大臣侯爵
主君仁孝天皇孝明天皇明治天皇
氏族広幡家
父母父:広幡基豊、母:鷹司皐子
猶父:近衛忠煕
兄弟忠礼、経家、豊子、牧子、鋭姫、輝子、繁子
大谷光朗の娘(近衛忠煕の養女)
忠朝、頼秀、徳麿、貴一郎、重礼、伊達宗敦室、青山幸宜室、北畠通城室、高倉永則
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広幡 忠礼(ひろはた ただあや)は、江戸時代後期の公卿明治時代政治家江戸時代公卿としては仁孝天皇(120代)・孝明天皇(121代)・明治天皇(122代)の3代にわたって仕え、正二位内大臣まで昇った。明治時代には貴族院議員などをつとめて政治家として活躍した。


関白近衛忠煕猶子となってその偏諱の授与を受け忠礼と名乗る。また、妻には近衛忠煕の養女(大谷光朗の娘)を迎えている。目次

1 動向

2 栄典

3 系譜

4 関連項目

5 脚注

動向

文政9年(1826年)に叙爵してから清華家の当主として速いスピードで昇進し、侍従右近衛権少将左近衛権中将などを歴任して、天保11年(1840年)には従三位となり公卿に列した。その後も踏歌節会外弁・権中納言などをつとめ、安政4年(1857年)には権大納言となった。しかしこの役職にあった際の文久3年(1863年)に幕府による陰謀事件八月十八日の政変に巻き込まれて参内停止にされた。その後赦免されて慶応3年(1867年)には内大臣に任ぜられた。王政復古の大号令の時に公武合体派として一時出仕を停止されるが、明治天皇の元服に際して許される[1]

明治時代には華族侯爵)となり、帝国議会が開かれると貴族院議員に就任し活躍した。英照皇太后の崩御の際に、病気をおして参内して斎官を務めたことから重態に陥り、これに驚いた明治天皇が使者を派遣すると共に勲一等旭日大綬章を授けたが、直後に逝去した[1]
栄典
位階


1887年(明治20年)12月26日 - 従一位[2]

勲章


1884年(明治17年)7月7日 - 侯爵[3]

1889年(明治22年)12月27日 - 勲二等瑞宝章[4]

1897年(明治30年)2月18日 - 勲一等旭日大綬章[5]

系譜

父:
広幡基豊

母:鷹司皐子(鷹司政煕の娘)

猶父:近衛忠煕

妻:大谷光朗の娘(近衛忠煕の養女)

男子:広幡忠朝


生母不詳の子女

男子:池田頼秀

男子:宮元徳麿

男子:木辺貫一郎

男子:横尾重礼

女子:伊達宗敦

女子:青山幸宜

女子:北畠通城

女子:高倉永則


関連項目

広幡家

脚注

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^ a b 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年、P834.
^ 『官報』第1351号「叙任及辞令」1887年12月28日。
^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
^ 『官報』第1952号「叙任及辞令」1889年12月28日。
^ 『官報』第4087号「叙任及辞令」1897年2月19日。

日本の爵位
先代:
叙爵侯爵
広幡家初代
1884年 - 1897年次代:
広幡忠朝










広幡家当主

忠幸 - 豊忠 - 忠誠 - 忠章 - 忠成 - 長忠 - 前豊 - 前秀 - 経豊 - 基豊 - 忠礼 - 忠朝 - 忠隆 - 増彌 - 忠恒 -



更新日時:2020年2月4日(火)09:07
取得日時:2021/03/21 20:51


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