中華民国
国民政府
国旗国章
首都広州市(1925-1926)
言語中国語
政府共和政体
委員会制
三民主義国家
国民政府主席
? 1925?1926汪兆銘
歴史
? 建立1925年7月1日
? 武漢遷都1927年1月
? 解体1926年12月31日
広州国民政府(こうしゅうこくみんせいふ、第4次広東政府)とは、中華民国建国の祖であった孫文亡き後の1925年7月に成立し、1926年12月まで続いた広東省広州市に本拠を置く国民政府。広東大元帥府の後継政権。主席委員は汪兆銘。 1925年3月の孫文の死去に際して、「革命尚未成功、同志仍須努力 (革命なお未だ成功せず、同志よって須く努力すべし)」との一節で有名な遺言(孫文遺嘱)を記したのが、孫文の片腕とされた汪兆銘であった[1][2]。汪はこれを、病床にあった孫文から同意を得たと伝えられている[1][注釈 1]。孫文亡きあとの大元帥は右派の胡漢民が務めた。 1925年7月1日、広州では広東軍政府の機構が再編され、国民党(一期)三中全会で国共合作の中華民国国民政府が正式に成立した[3]。汪兆銘は政府主席を務め、財政部長には孫文の片腕となって国民党改組を推進した党内左派の廖仲トが就任した[3][4]。また、工人部、農民部などの省庁も設けられ、その責任者には国民党籍も持つ共産党員が任命された[3]。政治顧問にはコミンテルンのミハイル・ボロディンが、軍事顧問には同じくソ連のヴァシーリー・ブリュヘルが就き、ソビエト連邦からの緊密な支援関係が構築されていた[3]。ところが、同年8月20日、廖仲トが暴徒によって暗殺され、その暗殺事件に従兄弟がかかわっていたとして胡漢民が自ら国民党内の役職から退いた[1][3]。このとき、?介石は汪兆銘をはじめとする左派に与し、胡漢民を一時監禁している[4]。 こうして、いったん右派勢力は後退したものの、11月には再び台頭してくる[4]。戴季陶・張継・林森・居正ら古参国民党員の一部が、北京郊外の西山碧雲寺に集まり、四中全会の名で共産党員の国民党籍を剥奪、ボロディンの解職、汪兆銘の6か月間の党籍剥奪などを公然と決議した(西山会議派)[4]。もっとも、左派はこれを容認せず、ただちに西山会議で決議された諸事項の無効を宣言した[4]。 1926年1月の国民党第2回全国代表大会では、汪兆銘は他者をおさえて中央委員第一位に当選した[5]。汪兆銘は国民政府主席兼軍事委員会主席の地位に就き、名実ともに国民党の指導者となった[5][1]。なお、当時の?介石はまだ軍事委員会委員で黄埔軍官学校校長にすぎなかった[1]。 汪兆銘は、広東の国民政府で国民政府常務委員会委員長と軍事委員会主席を兼任した[1][6]。この政府は国民党右派を排除したもので、毛沢東ら中国共産党の党員も参加していた[7]。
歴史
孫文の死
広州国民政府の成立中華民国十四年(1925年)七月二日「広州民国日報」第三版。「國民政府成立典禮盛況」の記事
共産勢力の台頭汪兆銘