広島鎮台(ひろしまちんだい)は、1873年から1888年まであった日本陸軍の部隊で、当時6つあった鎮台の一つである。広島に本営を置き、中国地方西部と四国地方に相当する第5軍管を管轄した。1888年の鎮台廃止により第5師団に引き継がれた。 明治初めの陸軍は、反乱鎮圧と対外防衛のための備えとして、全国に鎮台を配置した。広島鎮台は、1873年7月93日に4鎮台から6鎮台に数を増やしたときに設けられた[1]。各鎮台が担当する地域を軍管といい、広島鎮台は中国地方の西部と四国地方に相当する第5軍管を管轄した。第5軍管は2つの師管に分けられた。中国地方にあたる地域が、鎮台直轄の第11師管で、歩兵第11連隊が置かれた。四国地方は丸亀を本営とする第12師管で、歩兵第12連隊が置かれた。鎮台にはほかに砲兵第5大隊、工兵第5小隊、輜重兵第5小隊、そして下ノ関の海岸砲隊が属した。騎兵はない。人員の総数は平時4340人、戦時6410人と定められた[2]。しかし定員は計画上のもので、この時点で広島鎮台に歩兵連隊はなく、実際の充足にはなお時を要した[3]。 1885年5月18日制定・公布の明治18年太政官達第21号による鎮台条例改正で、6つの鎮台の兵力が均一にそろえられた[4]。各鎮台の主力は歩兵2個旅団(4個連隊)で、これに騎兵と砲兵が各1個連隊、工兵と輜重兵が各1個大隊加わる。歩兵連隊は広島に第11と第21の2つ、四国に第12(丸亀)と第22(松山)と二分したが、他兵科は広島に集中した。 しかし以上も計画であり、1885年段階で編成が完了していた歩兵連隊は、従来からの第11と第12連隊だけであった。あとの2つは、前年に歩兵第1大隊の編成ができたばかりで、3つの大隊がそろったのは鎮台が廃止になる1888年のことであった[5]。 1888年、鎮台条例は廃止になり、かわって師団司令部条例 1873年(明治8年)4月7日改訂の「六管鎮台表」による[2]。 鎮台条例の付表である「七軍管兵備表」と「諸兵配備表」による[4]。戦時には常備軍と同じ構成(補充隊は欠く)の後備軍が編成される予定であった。
広島鎮台の発足
1885年改正
鎮台の廃止と師団への移行
部隊の編制
1873年
広島鎮台(広島)
歩兵第11連隊(広島) 1875年9月に編成[6]
歩兵第12連隊(丸亀) 1875年9月に編成[6]
砲兵第5大隊
工兵第5小隊
輜重兵第5小隊
下ノ関砲隊
1885年
広島鎮台(広島)
歩兵第9旅団
歩兵第11連隊(広島)
歩兵第21連隊(広島) 1888年に編成完了[5]
歩兵第10旅団
歩兵第12連隊(丸亀)
歩兵第22連隊(松山) 1888年に編成完了[5]
騎兵第5連隊
砲兵第5連隊
工兵第5大隊(広島)
輜重兵第5大隊(広島)
歩兵補充隊4個大隊
騎兵補充隊1個中隊
砲兵補充隊1個中隊
輜重兵補充隊1個中隊
人事
司令長官
(御用取計)品川氏章 中佐:明治6年4月13日 - 明治6年11月
(心得)高橋勝政 大佐:明治6年11月17日 - 明治7年2月8日
井田譲 少将:明治7年2月8日 - 明治7年10月30日
(心得)高橋勝政 大佐:明治7年11月10日 - 明治9年10月26日
三浦梧楼 少将:明治9年10月26日 - 明治11年12月14日
井田譲 少将:明治11年12月14日 - 明治12年9月25日
司令官
井田譲 少将:明治12年9月25日 - 明治13年3月8日
黒川通軌 少将:明治13年4月29日 - 明治15年2月6日
野崎貞澄 少将:明治15年2月6日 - 明治18年5月21日
野津道貫 中将:明治18年5月21日 - 明治21年5月12日(明治21年5月14日第5師団長)
参謀長
高橋勝政 大佐:明治7年2月8日 - 明治7年11月10日
(欠員):明治9年11月24日 - 明治10年1月18日
中村重遠 中佐:明治10年1月18日 - 明治10年3月14日
土屋可成 大佐:明治11年11月18日 - 明治13年4月20日
国司順正 大佐:明治13年4月30日 - 明治14年1月26日
長谷川好道 大佐:明治14年1月26日 - 明治15年3月7日
小川又次 中佐:明治15年3月7日 - 明治17年10月28日
(心得)青山朗 中佐:明治18年6月1日 - 明治20年11月17日(1886.4.23大佐)
塩屋方圀 大佐:明治20年11月17日 - 明治21年5月14日(同日、第5師団参謀長)
脚注^ 『太政類典』第2編第205巻(兵制4・武官職制4)「鎮台条例改定」。
^ a b 『公文録』第41巻「六管鎮台表国事兵額並配分表刻成届」。