広島藩
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外様
42万6千石 広島藩の位置

広島藩(ひろしまはん)は、安芸国一国と備後国の半分を領有した大国主)。現在の広島県の大半を占める[注釈 1]。藩庁は安芸国佐東郡1664年沼田郡に改称)広島(現在の広島県広島市中区基町)の広島城に置かれた。芸州藩(または安芸藩)と呼ばれることも多い。
先史(室町・安土桃山時代)

鎌倉時代末期に越後国刈羽郡(旧称:三島郡)佐橋荘(さはしのしょう)を領した毛利経光は、四男の時親安芸国高田郡吉田荘(よしだのしょう ? 高田郡吉田村吉田、現・広島県安芸高田市吉田町吉田)を分与し分家を立てさせた。時親の子・貞親、孫の親衡は越後に留まり安芸の所領は間接統治という形をとったが[注釈 2]南北朝時代に時親の曽孫・元春は安芸に下向し、吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)において領地を直接統治[注釈 3]するようになる。吉田荘に移った毛利氏は、室町時代に安芸国の有力な国人領主として成長した。

毛利氏戦国時代、安芸武田氏を討って安芸を平定すると、大内義長を滅ぼし、尼子義久を降伏させて中国地方の大半(一時は九州の一部にも及ぶ)を領する大大名となる。天正19年(1591年)には広島城が築城されて毛利氏の居城となり、広島は政治・経済の中心地となった。

しかし、慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍の総大将として参戦し敗戦した毛利輝元は、戦後に山陰・山陽の120万5千石から二国(長州藩・現在の山口県)29万8千石に減封された[注釈 4]
藩史
福島家の時代浅野長晟饒津神社中之島_(大阪府)にあった広島藩蔵屋敷の松。福島正則が植えたと言われ、タコの姿に似ていることから名所となっていた(『浪花百景』鮹の松夜の景)。描かれた白壁は隣接の久留米藩蔵屋敷。

毛利家のあとは安芸・備後2か国40万2千150石[注釈 5]太守として、尾張国清洲より福島正則が入封した。正則は慶長6年(1601年)から再検地を実施し、高直しで49万8000石の朱印高を得た[2]。毛利家時代に不徹底に終わった兵農分離石高制の移行を行った。しかし安芸は土豪の勢力が根強かったことから、一部に妥協して郷士制も残している。また、城下町の建設や国内産業の発展なども正則の時代に行われ、広島藩の藩政が確立した。

慶長20年閏6月13日(1615年8月7日)、一国一城令により、安芸国広島城備後国神辺城(村尾城)を残し破却した(神辺城は、のちに福山城を築いて移った水野家により破却される)。備後国の三原要害(三原城)は、一城令より前に福島正之が追放されてから廃城となっていたが、発令後に福島家は破却した鞆城の櫓を密かに移築したとも言われる。

しかし正則は、大坂の陣が終わった後の元和5年(1619年)6月、洪水で損壊した広島城を無断改修した武家諸法度違反の咎により、大幅減封の上信濃国高井野藩(通称川中島藩)に転封された。
浅野家の時代

代わって紀州藩より、豊臣政権下で五奉行を務めた浅野長政の次男浅野長晟が安芸1国・備後8郡の国主大名として入封した。芸備2国の福島領より狭少だったが、42万6000石の検知高を得て幕府から承認された。広島は大坂との瀬戸内海航路の海運に恵まれ、藩成立の早期より木材・鉄・紙などの専売を敷いた。また、米相場を巧みに利用し、自藩の米のみならず他藩の米を安く仕入れ、相場を見極めて売りさばき巨利を得て、「芸侯の商売上手」と江戸時代中期の学者・海保青陵儒学経済学)より評された。

長晟は福島家時代の政策を踏襲するが、その一方で土豪に対しては厳しい態度で臨み[注釈 6]、統治機構の近代化を目指した。

第2代藩主・光晟(長晟の次男)は徳川家康の外孫であったため、幕府の許しを得て光晟の庶兄・浅野長治に5万石を分与した。これが支藩である三次藩の立藩であり、三次陣屋が置かれた。光晟は街道整備に尽力し、また松平姓を名乗ることも許された。

第3代藩主・綱晟(光晟の長男)は正室、継室にいずれも九条道房の娘を迎えている。道房の母は豊臣秀勝の娘である豊臣完子であり、以降の浅野宗家は豊臣家の血を女系で受け継ぐことになる。

第4代藩主・綱長(綱晟の長男)時代の元禄14年(1701年)、分家の赤穂藩主・浅野長矩刃傷事件を起こすに至ったが、この事件を受けて広島藩は、事が大きくなって浅野本家に一族連座するのを避けるため、進藤俊重小山良速など赤穂藩重臣たちの親族の藩士を次々と赤穂藩へ派遣して開城圧力をかけたり、その後の大石良雄の盟約にも切り崩しをはかり、進藤俊式小山良師ら大石側近を説得して脱盟させている。


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