広島東照宮
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広島東照宮
拝殿
所在地広島市東区二葉の里2-1-18
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度24分13秒 東経132度28分32秒 / 北緯34.40361度 東経132.47556度 / 34.40361; 132.47556座標: 北緯34度24分13秒 東経132度28分32秒 / 北緯34.40361度 東経132.47556度 / 34.40361; 132.47556
主祭神東照大権現(徳川家康
創建1648年慶安元年)
地図 .mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}広島東照宮 広島県内での位置 広島市内での位置
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鳥居および参道

広島東照宮(ひろしまとうしょうぐう)は、広島県広島市東区の二葉山山麓の約300 mの高台にある東照宮で、尾長東照宮ともよばれている。現存する被爆建物の一つであり、それらは広島市指定文化財となっている。
概要

1648年慶安元年)創建。広島城の北東方位の鬼門にあたる二葉山中腹にあり[1]、西側に広島県神社庁、裏手に金光稲荷神社がある。

祭神は東照大権現(徳川家康)で、藩主自身が祭祀する神社であったため、没後50年ごとに「通り御祭礼」(後述)という祭礼が盛大に行なわれていたが、文化12年(1815年)を最後に中断していた。しかし2015年(平成27年)に200年ぶりに開催された[2]

1945年昭和20年)広島市への原子爆弾投下が行われたが、当社は爆心地から約2.1 kmに位置し、熱風により拝殿や本殿は焼失するが、唐門、翼廊などの社殿は全壊や焼失を逃れ、現存する被爆建物の一つであり広島市指定文化財となっている。
沿革

徳川家光日光東照宮を建立後、諸大名に東照宮の造営を勧めたため、全国各地に東照宮が創建されていった[3]。広島東照宮もその中の一つであり、藩の多大な経費を用いて建立された。浅野氏広島藩2代藩主浅野光晟は、生母である正清院(振姫)が家康の三女であることから特に造営に熱心で、正保3年(1646年)に東照宮の造営を開始し、慶安元年(1648年)7月に創建され[4]、遷座式は藩主・光晟が衣冠束帯を着用し自らの手で行い、社領三百石を付している[3][5][6]。東照宮を勧請した理由として、家康が光晟の祖父であるということは当然のことだが、岡山藩池田光政が正保2年(1645年)に全国で初めて東照宮を勧請したことにならい幕府に忠誠を示しすこと、領民に対し権威の象徴にしたことがあげられる[7]

1880年明治3年)社領が廃止され、1881年(明治4年)藩主が東京へ移住のさいに、神霊(神体)も東京に移された[8]。広島市内の有志が、浅野家へ神霊を戻すように懇願したことで、のちに神霊がもとに戻された[8]。別の一説によると、神霊が移された跡に地主神の尾長大神を勧請するが、のち創建当時に神霊と崇めた家康木像を神体として祀ったとされる[9]。県庁へ願い出て1885年(明治8年)に村社に列する[8]1914年大正3年)神饌幣帛料供進社に指定される[8]

太平洋戦争当時、南下の参道には東練兵場が広がり、境内には大日本帝国陸軍第二総軍通信隊の通信兵約20人が常駐していた[1]。また空襲の可能性が低い区域のため、民間だけではなく公共機関の避難所にも指定されていた。ただ、安全性が高いとされたことから社宝は疎開の措置が施されず、そのまま境内に安置されていた。

1945年(昭和20年)8月6日、被爆。ここは爆心地から約2.10km(広島市公式)に位置した。爆風により建物の瓦や天井が吹き飛び北方に傾き、石造の鳥居が跡かたもなく吹き飛ばされた。熱風によりまず拝殿から出火し、瑞垣や本殿、神馬舎へ延焼した。その後も被害が広がりつつあったが通信兵の手により更なる延焼から免れ全焼は回避された[1]。また社宝は大部分が消失した。同日、市内の被爆者が多数避難してきて大混乱となった。境内南下に臨時救護所が設けられ、通信兵や陸海軍救護隊や民間の医療救護班によって治療活動が行われ、特に重傷者は近くの國前寺へと運ばれた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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