広島平和記念資料館
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広島平和記念資料館
Hiroshima Peace Memorial Museum



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施設情報
正式名称広島平和記念資料館[1]
専門分野広島市への原子爆弾投下の惨状を伝える
事業主体広島市
管理運営公益財団法人広島平和文化センター(指定管理者)[2]
開館1955年
所在地730-0811
広島県広島市中区中島町1-2
(入場口がある東館。座標位置もそちら)
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度23分29.3秒 東経132度27分11.0秒 / 北緯34.391472度 東経132.453056度 / 34.391472; 132.453056 (広島平和記念資料館)座標: 北緯34度23分29.3秒 東経132度27分11.0秒 / 北緯34.391472度 東経132.453056度 / 34.391472; 132.453056 (広島平和記念資料館)
プロジェクト:GLAM
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館内に展示されている腕時計(許可を得て撮影)。原爆投下時刻で停止している。館内に展示されている石仏の頭部。原爆の熱線により表面が焼けただれている。現在の本館の位置に所在していた誓願寺の跡で発見された。

画像外部リンク
広島県立文書館所有の絵葉書。
[絵葉書](平和記念館・広島児童図書館)

広島平和記念資料館(ひろしまへいわきねんしりょうかん、: Hiroshima Peace Memorial Museum)は、広島県広島市中区に所在する博物館(平和博物館)である。「原爆資料館」(げんばくしりょうかん / もしくは「平和資料館」)とも称される。
概要

中島町広島平和記念公園敷地内に所在し、広島原爆の惨状を後世に伝えるための施設として当初は「広島平和会館原爆記念陳列館」の名称で開館した。運営は広島市出資の公益財団法人広島平和文化センターが行っている。

2024年5月現在の入館料は、大人200円・高校生100円・中学生以下は無料[注釈 1]。団体料金は、大人が30人以上の場合は1人当たり160円に、高校生以下が20人以上の場合は無料になる。

重要文化財である西側の「本館」と、東側の「東館」からなり、観覧は東館から入場し、本館を見学後、東館に戻り退出するコースとなっている。東館には原爆投下までの広島市の歴史や原爆投下の歴史的背景に関する展示があり、本館では広島原爆の人的・物的被害に関する展示が行われている。特に、原爆投下直後の壊滅した広島市街地の縮小模型、熱線で全身の皮膚を焼けただれさせながら炎の中をさまよう被爆者の等身大ジオラマ(通称:被爆再現人形(後出)、現在は撤去済み)、被爆死した三人の動員学徒が身に付けていた制服の残骸を組み合わせて一体の人形に仕立てた「三位一体の遺品」や「黒焦げの弁当箱」など被爆死した動員学徒[注釈 2]たちの遺品、本通住友銀行広島支店から1971年に移設された「人影の石[注釈 3]などがよく知られている。2013年現在の収蔵品は約2万1000点に及び、館内の見学は本来は3時間ほどかかるとされるが、資料館側の調査によると実際の来館者たちの見学時間は後述の通り平均45分余であるという[5]
沿革

1945年8月6日、世界最初の原子爆弾に被爆し、多くの人的・物的犠牲を払う惨禍に見舞われた広島市では、第二次世界大戦後の早い時期から、学術機関のみならず市民の手で被爆資料の収集が行われていた。この活動の中心となっていたのは、広島大学理学部地質学教室の嘱託を務めていた長岡省吾[注釈 4]であり、収集された資料は、1949年から広島市中央公民館の一角に設置された「原爆参考資料陳列室」に展示されていた[6]。しかし、所蔵資料の増加に伴い、原子爆弾の惨禍を広く世界アピールするため、これらの保管・展示を目的とする展示施設を求める声が高まっていった。

同時期、爆心地である中島地区を新たに広島平和記念公園として整備する構想が進んでいたが、資料展示施設は公園の全体設計を担当した建築家・丹下健三により、公園の目玉施設として位置づけられるに至った。丹下の設計による「広島平和会館原爆記念陳列館(現・広島平和記念資料館)」は1955年に開館し、これに伴い中央公民館の被爆資料は「陳列館」に移されて展示・保管され、初代館長には長岡が就任した[6]

開館当初の広島平和記念資料館は、現在の「本館」(写真の左手前側)のみであったが、設計者の丹下によってコンペティション(広島平和記念公園及び記念館競技設計)当初より、資料館の西側に「集会所」として広島市公会堂(現在の広島国際会議場)を、東側(画像の右手奥側)には広島平和会館本館(平和記念館 / 現在の東館)を配して、それらを空中回廊で結んで3棟一体の建築とするよう計画されていた[注釈 5]

1956年に、日本を巡回していた原子力平和利用博覧会の会場に使われ、展示物は一時的に近くの公民館に移された[7][8]。その後、1958年に開催された広島復興大博覧会でも『原子力科学館』として一部の展示物は展示され[9]、その展示物は1967年まで原爆資料館内で展示[10]。その時代は、原子爆弾の悲惨さと原子力の平和利用を伝える施設で[10]、見学者から『内容が分裂症状気味だ』とする指摘もあった[10]。1967年5月に平和利用の展示は撤去され、現在につながる性格付けがなされた[10]

1973年から1975年に掛けて1回目の大改修が行われ、劣化したコンクリートの補修、赤外線を遮断する窓ガラスへの交換、収納庫の新設などがなされた。また、これまで未整備だった空調設備が整備され、被爆資料の保管環境は向上した[11]。「被爆再現人形」が展示品に加わったのもこの時であった。

1991年には2回目の大改修が行われ、展示内容の見直し、改装が行われた。1994年に平和記念館を改築した際、旧来の平和記念資料館と併せて「平和記念資料館(東館・西館)」と呼ぶようになり、当初からの建物を西館、記念館跡地に新たに建設されたものを東館と称した。この改築に際して2館は空中回廊で連結され、以後入館時には東館から入場し西館から退館するようになった。

1998年には広島国際会議場と合わせて公共建築百選に指定。


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