中央公園
1988年。黄色で囲まれた部分が中央公園の目安。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス
広島市中央公園(ひろしましちゅうおうこうえん)は、広島県広島市中区基町にある都市公園(総合公園)[1]。広島市公園条例では単に「中央公園」として定められている[2]。 1946年(昭和21年)の都市計画を経て、1949年(昭和24年)に公布・施行された広島平和記念都市建設法に基づき整備された[3]。 中四国地方最大の商業業務地である広島市の紙屋町・八丁堀に隣接し、周辺には広島平和記念公園があるほか、交通施設として広島バスセンターやアストラムライン県庁前駅、商業施設として基町クレドや地下街シャレオがある[3]。 公園全体は公益財団法人広島市みどり生きもの協会が管理する。広島市公園条例第6条の3では、中央公園のうち広島城及びその周辺の区域を中央公園「広島城区域」として定めている[2](一般には「広島城公園」「広島城址公園」と呼ばれている)。なお、広島護国神社などの区域は中央公園の区域外である(広島護国神社の敷地については1956年(昭和31年)に公園区域から除外された)[3]。 「中央公園(史跡広島城跡二の丸周辺)」で平成7年度手づくり郷土賞(歴史・文化部門)受賞 江戸時代には、武家屋敷が広がり、明治以降は陸軍第5師団が置かれたが、1945年の原爆投下により爆心地近く(軍用地のほぼ全域が爆心地より1.5km以内)に位置していたため壊滅、軍用地は撤去された。 1946年(昭和21年)11月1日、戦告237号により70.48haが『中央公園』として、都市計画公園として指定[4]。当時の計画では、原爆ドームのある近辺や基町のアパート群周辺も中央公園用地とされていた。また、丹下健三が設計した広島平和記念公園の1951年(昭和26年)当時の計画では、当公園のほか、基町中層アパート群や市営基町高層アパートのあたりも、平和公園として整備する構想があった[5]。1951年(昭和26年)8月6日に発表された「広島平和記念都市建設計画についての意見書」で、中央公園用地については正式に、平和祈念施設建設用地から外された[6]。その後の計画で、中央公園は58.76haに変更された[7]。 実際は、戦後の住宅不足を解消するために、公営の住宅が1949年(昭和24年)までに市・県・住宅営団などが1815戸建築[8]。さらに原爆で住む家を失った被災者たちが本川東岸を中心とする地区に流入して次々にバラック住宅を建築、いわゆる原爆スラム(通称「相生通り」)が形成された[9]。 1952年(昭和27年)、公園の北側突端部のうち東側、広島市民病院敷地、広島商工会議所敷地が公園区域から除外された[3]。 1955年(昭和30年)5月の広島市長選で、中央公園を縮小して住宅建設をする公約を出した渡辺忠雄が当選[10]。1956年(昭和31年)11月には、基町にアパートを1,894戸建築することを決定[11]。公園用地は、さらに16ha減らされた[12]。 1956年に公園区域から除外されたのは、広島護国神社及びPL教団敷地、河岸緑地、基町住宅用地である[3]。
概要
歴史
公園の整備
区域の変遷