広島城
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「鯉城」はこの項目へ転送されています。中国福建省泉州市の市轄区については「鯉城区」をご覧ください。

logo広島城
広島県
外観復元天守
別名鯉城、在間城、当麻城
城郭構造輪郭式平城
天守構造複連結式望楼型5重5階(1592年・非現存)
外観復元(SRC造1958年再)
築城主毛利輝元
築城年1589年(天正17年)
主な改修者福島正則
主な城主毛利氏、福島氏、浅野氏
廃城年1871年(明治4年)
遺構石垣、堀
指定文化財国の史跡
再建造物外観復元大天守・表御門・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度24分10.13秒 東経132度27分32.28秒 / 北緯34.4028139度 東経132.4589667度 / 34.4028139; 132.4589667座標: 北緯34度24分10.13秒 東経132度27分32.28秒 / 北緯34.4028139度 東経132.4589667度 / 34.4028139; 132.4589667
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広島城(ひろしまじょう)は、安芸国佐東郡広島(広島県広島市中区基町)にあった安土桃山時代から江戸時代日本の城。国の史跡に指定されている。毛利輝元太田川河口のデルタ地帯に築いた平城で、1945年(昭和20年)まで天守を始めとする城郭建築が現存していたが[2]太平洋戦争末期アメリカ軍原子爆弾投下によって倒壊し、現在見られる城内の天守以下城郭建築はすべて1958年以降に再建されたものである[3]
概要

江戸時代初頭に入城した福島正則の増築以降に、城域となった外堀までの約90万平方メートルの範囲のうち、現在の史跡としての広島城は広島市中央公園[4] の内堀を含む本丸跡と二の丸跡の範囲で、広さ約12万m2[5] と三の丸跡の一部が残る。広島市公園条例第6条の3では、中央公園のうち広島城及びその周辺の区域を中央公園「広島城区域」として定めている[6](一般には「広島城公園[7]」「広島城址公園」と呼ばれている)。なお、城内に広島護国神社の敷地があるが、同神社の敷地については1956年に公園区域からは除外されている[8]

大坂城岡山城などと共に初期近世城郭の代表的なもので[9] 、また名古屋城岡山城と共に日本三大平城[10] に数えられる。日本100名城の一つに選定されている。

江戸時代では西日本有数の所領となった広島藩42万6000石の浅野家12代の居城となり、江戸時代中期に書かれた『広島藩御覚書帖』によると、5重と3重の大小天守群以下、櫓88基が建てられていた。1592年に毛利輝元によって創建された大天守は、外壁仕上げの下見板張りや最上階に高欄を持つ外観仕様が国宝指定(1931年)の理由の一つとなった[2]近代日清戦争時に、本丸に大本営が置かれるなど軍都広島の中心であった。1945年のアメリカ軍による広島市への原子爆弾投下により、現存していた天守は倒壊し、櫓や城門も失われた。近年の研究で天守は原爆による爆風で吹き飛ばされたのではなく建物の自重により自壊したことが判明している。現在の天守は鉄筋コンクリート構造による外観復元天守である。

外観復元された大天守は歴史博物館「広島城」として利用されている。2023年現在大天守、小天守、中御門、裏御門、本丸御殿、本丸多聞櫓の木造復元計画があるが移動できる土地が無い為、護国神社は移築する予定はない。本丸跡、二の丸跡以外は都市開発により城跡の面影はなく、史跡外で確認できる遺構は、堀の石垣の天端石、広島高等裁判所敷地内にある中堀土塁跡、空鞘橋東詰南側の外郭櫓跡程度である[11][12]
別称

別称は「鯉城(りじょう)」。広島城があった一帯は昔「己斐浦(こいのうら)」と呼ばれ、広島市西区己斐の地名は延喜式で嘉字地名とされる前は「」であったと言われていることから、この名がついた[13][14][15]。一説には堀にたくさんの鯉がいたからとも、天守が黒いからとも言われる。その他、「在間城(ざいまじょう)」[† 1]、「当麻城(たいまじょう)」の別称がある[16]

現存する資料の中で鯉城の名前が使われた最も古い資料は、江戸時代後期に藩儒頼聿庵が読んだ漢詩『遊東郊』の一節紅塵背指鯉魚城(紅塵背指すれば鯉魚の城) ? 頼聿庵『遊東郊』、[13][17]

である。由来については江戸時代に書かれた資料はなく、現在一般的に知られる由来は明治時代以降の資料からである[13]。よって一部では鯉城の由来は明治期に考えられたと唱えるものもいる[13]

2003年、中区八丁堀の国土交通省中国地方整備局太田川河川事務所での発掘作業で、「鯉の金箔瓦」が1点出土している[18][19]。金箔が施されていることから毛利氏時代のもの(下記金鯱瓦の項もあわせて参照)と推定されているが、天守と関係あるものかは不明[20]

鯉城通り、鯉城会館、鯉城高校(現広島県立広島国泰寺高等学校)、鯉城グループなど、市内中心部にある施設に鯉城を冠した名前のものが多い。また鯉城から「広島東洋カープ」(英語で鯉がCARP)のチーム名が付けられた[13]
歴史
前史吉田郡山城跡の遠景毛利輝元

この地は太田川下流域にあたり、上流から堆積した土砂が三角州を形成し、中世には小島や砂州に小規模な集落が点在していた[21][22]

承久の乱以降、その戦功により安芸国守護に命じられた武田氏により当地は治められていたが、戦国時代になると毛利元就が武田氏を滅ぼし厳島の戦い陶氏大内氏)に勝利したことにより、以降当地は毛利氏によって支配されることになる[22][23]

それまでの毛利氏の居城である吉田郡山城は、尼子氏大軍を撃退した経験を持つ堅固な山城であり、また山陰山陽を結ぶ場所に位置するため、領土の争奪戦を伴う戦国時代の毛利氏には適していた[24]

だが、元就の孫・毛利輝元の時代、天正末期になり天下が安定する頃になると、それまでの防護を主目的とした城造りから、城を権力の中心としてシンボル化しその周りを城下町として整備し領国の政務・商業の中心地として発展させる「近世城郭」建築の時代になる[24]。中国地方9か国112万石(小早川や安国寺ら含めると150万石以上)の太守であった毛利氏にとって、山間部の山城である吉田郡山城は、政務および商業ともに手狭なものとなり始めた[24][25]。そこで、海上交易路である瀬戸内の水運が生かせ、城下町の形成が可能な平野がある海沿いへ拠点を移すことを考え始めた[24]

1588年(天正16年)、輝元は豊臣秀吉の招きに応じて小早川隆景吉川広家らと上洛し、大坂城聚楽第を訪れ近世城郭の重要性を痛感し、新しい城を造ることを決意したと言われている[19][24]。一説には永禄年間(1558年-1569年)の輝元の祖父である元就のころから現在の広島の平野部(一説には比治山)への築城構想はあった[22] という。「中国国分」も参照広島城吉田郡山城大坂城聚楽第名護屋城
築城

1589年(天正17年)2月、輝元は現地調査のため吉田郡山を出発し、明星院山(現東区二葉山)・新山(現東区牛田)・己斐松山(現西区己斐[† 2])の3箇所に登り太田川下流域を検地した結果、「最も広い島地」である五箇村(あるいは五ヶ村・佐東五ヶ)に築城することに決めた[12][23][24]

1589年(天正17年)4月15日鍬入れ式[27]穂井田(穂田)元清二宮就辰普請奉行として、築城が開始された[27]。城の構造は大坂城を参考として、縄張は聚楽第に範を取っているといわれる。

1590年(天正18年)末、堀と城塁が竣工したことから、1591年(天正19年)1月8日に輝元は入城した[23][24][27]1592年(文禄元年)4月、文禄の役を指揮するため名護屋城へ向かう途中の秀吉がここへ立ち寄って城内を見物している[19]1593年文禄2年)石垣が完成、1599年慶長4年)に全工事が完了し落成した[24]。なお「広島」という名はこの頃に付けられたと言われている(詳細は広島市#市名の由来参照)[25]福島正則


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