広島原爆で被爆したアメリカ人
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広島原爆で被爆したアメリカ人(ひろしまげんばくでひばくしたアメリカじん)は、1945年8月6日広島市への原子爆弾投下被爆したアメリカ人

アメリカ政府は直接被爆したアメリカ人捕虜が10人いたと認定、日本の民間団体・歴史研究家の調査では12人いたとしている。朝日新聞社系のみ2014年現在直接被爆者を13人としている[1]が内訳は不明。その他にもアメリカ政府は認定していないが、入市被爆したアメリカ人捕虜が10人、日系アメリカ人および日本国籍を取得したアメリカ系日本人にも被爆者はいる。本項では特に被爆したアメリカ人捕虜を中心に記載する。
沿革1945年米軍作成の広島市地図。地図上に"POW Camp""War Camp"がないことがわかる。地図中央付近のT字の橋が相生橋、そこからやや右下、電車が通るT字の交差点の右上"MIlitary Police"が中国憲兵隊司令部。その上側、広島城本丸の"5fh Division Hq"(第5師団)が被爆当時中国軍管区司令部。そこから右下の"11th Infanty Regiment"(歩兵第11連隊)に被爆時中国軍管区歩兵第一補充隊が駐屯していた。地図中央下が宇品で海岸沿いの"Army Transport Base"が船舶司令部でこの近辺に宇品憲兵分隊や船舶練習部附属病院が置かれていた。.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}原爆投下前。投下後。同心円の中心が爆心地。上地図と位置関係を参照。
背景

広島は、元々陸軍第5師団の拠点であり”軍都”として発展し、太平洋戦争末期には本土決戦に備え第2総軍司令部が置かれ、軍事的な拠点としての役割が強まっていた[2][3]

太平洋戦争時、連合国側の民間人は敵国人として集められ抑留されており、広島を含めた中国地方では三次の愛光保健園(現在の広島県三次市愛光保育所の敷地)に収容された[4]。例えば、広島市内にある援助修道会(英語版)のカトリック三篠教会では被爆時、フランス人院長は結核により入院、イギリス人とベルギー人の修道女は敵国人として愛光保健園へ送られ、フランス2・イタリア2・アイルランド1・日本2の計7人の修道女とドイツ人神父1人の編成だった[4][5]

広島が原爆投下の第一候補に選ばれた理由の一つに、当時市街地に捕虜収容所がないとアメリカ側に思われていたことが挙げられる[6]。現在の広島市域では、第一次世界大戦後に似島に捕虜収容所(似島俘虜収容所)が設けられたことはあるが[7]、太平洋戦争中には収容所はなかった。

しかし実際には、アメリカ人捕虜が存在していた。呉軍港空襲の最終局面である1945年7月28日、アメリカ側は榛名利根などを撃沈したが、日本側もアメリカ軍機を撃墜し生き残った乗員を捕虜として捕らえた[3][8]。以下、日本の民間団体や歴史研究家が取りまとめた当時の日本側の対応を示す[3][8]

アメリカ爆撃機2機・艦載機20機以上を撃墜。

生き残った捕虜は別々に捕らえられ最終的に以下に収監。

呉海軍刑務所に7人収監、8月1日横須賀大船収容所に移送。

中国憲兵隊司令部に15人拘束、うち3人の将校は7月30日東京防衛総司令部に移送。

こうして7月28日のみの戦闘で捕虜となった中国憲兵隊司令部に残る12人が被爆することになる[8][3][9]。12人の乗員別内訳は以下のとおり(詳細は下記被爆者の項を参照)。


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