広尾
町丁
広尾(外苑西通り)。天現寺橋交差点から広尾橋交差点を臨む。左建物は都営広尾五丁目アパート。
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度39分15秒 東経139度43分05秒 / 北緯35.654303度 東経139.717972度 / 35.654303; 139.717972
国 日本
都道府県 東京
特別区 渋谷区
地域渋谷地域
人口情報(2023年(令和5年)1月1日現在[1])
人口15,065 人
世帯数8,506 世帯
面積([2])
0.825557777 km²
人口密度18248.27 人/km²
郵便番号150-0012[3]
市外局番03(東京MA)[4]
ナンバープレート品川
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広尾(ひろお)は、東京都渋谷区の町名。現行行政地名は広尾一丁目から広尾五丁目。住居表示実施済み区域。
以下では1966年の住居表示実施後の現行の「広尾」について述べるのを基本とするが、「広尾」は現在の渋谷区と港区にまたがる広域地名でもあるため、現行行政地名の範囲に含まれない地域を「周辺地域」として合わせて述べる場合がある。 東京都渋谷区の南東部に位置している。西は同区・東と、南は渋谷川を境界として同区・恵比寿と、東は港区南麻布と、北は港区西麻布および南青山と接する。 二丁目や三丁目の高台などは東京都内を代表する高級住宅街の一つであるが、幹線道路沿いにはオフィスビルや雑居ビル、個人商店からチェーンストアまでの店舗が多く見られる。天現寺交差点付近には、在日アメリカ海軍の施設「ニュー山王ホテル(ニューサンノー米軍センター)」がある。 広尾の公示地価の平均が208万0000円/m2(2021年)、坪単価は687万6033円/坪であり、前年比から+0.12%の上昇であった。 基準地価の平均が234万6666円/m2(2020年)、坪単価は775万7575円/坪である。 もともと広尾は「樋籠」(ひろう)と記され、広大な原野であったという。「広尾原」とも呼ばれた。文政から天保年間に描かれた『江戸名所図会』では、一面にススキが広がる景色が描かれている[6][5]。ススキ原の端、渋谷川山下橋には江戸時代大型の水車が設置され、山下橋の風情と合わせて、これも『江戸名所図会』に載っている[7][8]。現在の港区と渋谷区に跨る広域地名でもあった。 江戸時代初期までは下渋谷村の一部であったのが、1664年に町屋の起立が許され渋谷広尾町が発足。その後、1713年に江戸町奉行の所管になった際に広尾橋を挟んで麻布側にも麻布広尾町が発足する。なお渋谷広尾町は現在の恵比寿駅前と渋谷橋 1870年(明治3年)、渋谷広尾町は渋谷広尾町・渋谷上広尾町・渋谷下広尾町に三分割され、翌1871年(明治4年)に東京府豊島郡に編入されるが、1878年(明治11年)には郡区町村編制法施行に伴い、東京府麻布区に編入される。1889年(明治22年)の市制・町村制施行に伴い、渋谷広尾町・渋谷下広尾町の全域及び渋谷上広尾町と麻布広尾町の一部が南豊島郡(1896年より豊多摩郡)渋谷村に編入され、同村の大字となる。一方、渋谷上広尾町の残部と麻布広尾町の大部分は東京市麻布区に編入され、1891年(明治24年)に麻布区の渋谷上広尾町は麻布広尾町に併合された。 また1911年(明治44年)に麻布区に新広尾町が起立するが、この範囲は天現寺橋から麻布十番に近い一ノ橋までの古川両岸の地域で、本来の広尾とは別物である。ただし、麻布広尾町の住人の手により起立した町といわれ、地番も麻布広尾町の続き番号となっていた。 なお、渋谷町(1909年町制施行)は1928年(昭和3年)に町内の11大字を廃止して新たに66町を設置したが、広尾の名前は新設の元広尾町が受け継いだ。このため、住居表示実施以前は現在の渋谷区広尾五丁目付近が「元広尾町」、現在の港区南麻布五丁目付近が「(麻布)広尾町」であった。港区南麻布四丁目に広尾神社がある。 1966年(昭和41年)7月1日に住居表示が実施された[9]。 実施後実施年月日実施前(特記なければ各字名ともその一部) 明治屋広尾ストアー等が入る広尾プラザや都営広尾五丁目アパートのある広尾五丁目から、都立広尾病院や慶應幼稚舎のある恵比寿二丁目にかけての平坦地一帯は、かつてツクシがたくさん生えていたことから「土筆ヶ原」(つくしがはら)と呼ばれ、江戸時代には 『江戸名所図会』の挿絵にも見られるように庶民の遊歩散策の場所となっていた[10][11]。
地理
地価
歴史広重『名所江戸百景』より「広尾ふる川」。広大な原っぱだった。絵は相模殿橋(四の橋)から現在の白金三丁目付近を望んだところ。橋のたもとに描かれているのは、当時料理自慢として知られた鰻の蒲焼専門店の「狐鰻」『江戸名所図会』3巻より「広尾原」[5]
広尾交差点、「外苑西通り」の北側を見る(2017年9月24日撮影)
同左、「外苑西通り」の南側を見る(2017年9月24日撮影)
同左、南麻布五丁目方向を見る(2017年9月24日撮影)
同左、広尾商店街を見る(2017年9月24日撮影)
町名の変遷
広尾一丁目1966年7月1日下通二丁目、下通三丁目、豊分町、永住町、上智町、中通一丁目
広尾二丁目豊分町、永住町、羽沢町
広尾三丁目常磐松町、羽沢町、若木町
広尾四丁目羽沢町、宮代町
広尾五丁目元広尾町(全域)、下通一丁目、下通二丁目、豊分町、宮代町
地域
土筆ヶ原
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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