広井勇
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広井 勇広井勇(1928年)
人物情報
生誕 (1862-10-24) 1862年10月24日
土佐国佐川村
死没 (1928-10-01) 1928年10月1日(65歳没)
東京市牛込区
出身校札幌農学校(農学士)
カールスルーエ大学シュトゥットガルト大学(バウ・インジュニュール:土木工師)
両親父:広井喜十郎
母:寅子
学問
研究機関札幌農学校
東京帝国大学
主要な作品秋田港廣井波止場
小樽港北防波堤
豊平橋
影響を受けた人物野中兼山伊藤蘭林
ウィリアム・ホイーラー
セシル・ピーボディ
メリマン・ハリス
影響を与えた人物岡崎文吉堀見末子
青山士太田圓三
増田淳八田與一
久保田豊田中豊
石川栄耀宮本武之輔
安芸皎一高橋裕
伊藤長右衛門
学会土木学会
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廣井 勇
札幌農学校時代の仲間と共にメリマン・ハリスの墓参り(前列左)。1928年
教派メソジスト教会
受洗日1877年6月
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広井 勇(旧字体:廣井 勇、ひろい いさみ、1862年10月24日文久2年9月2日) - 1928年昭和3年)10月1日)は、日本の土木工学者。元東京帝国大学教授高知県出身。札幌農学校(現在の北海道大学)卒業。「港湾工学の父」と呼ばれた。
生涯
高知から東京、そして札幌へ

1862年文久2年)、土佐国佐川村(現、高知県高岡郡佐川町)において、筆頭家老深尾家の家臣で土佐藩御納戸役を務める広井喜十郎とその妻、寅子との間に長男、数馬として生まれる。同郷同世代の牧野富太郎同様、幼い頃から郷校名教館(めいこうかん)で儒学者伊藤蘭林1815年-1895年)に学んだ。数馬の曽祖父広井遊冥(1770年-1853年)もまた、かつて名教館で儒学や和算を教えており、蘭林はその弟子であった。

当時はまだ安政南海地震の爪跡が残る時代だったが、幼い頃の数馬は浦戸湾の入口にあたる種崎村(現、高知市)の海岸で、十数年前に津波が襲来した際、堆砂の中に埋没し忘れられていた堤防が露出して津波を防いだという話を聞かされたと記している[1]。この堤防は、遡ること200年前の1655年明暦元年)に、野中兼山が造らせたものであった。

9歳のときに父と死別し、名を勇と改める。11歳で上京、叔父である男爵片岡利和の邸宅に書生として寄宿しながら工部大学校予科へ入ったが、16歳のとき、工部大学校の学費方針変更を受けて、全額官費で生活費も支給されるという札幌農学校に入学を決めた[2]
札幌農学校と海外武者修行

札幌農学校では内村鑑三新渡戸稲造宮部金吾らとともに二期生となった。教頭には前年帰国したウィリアム・スミス・クラークに代わって、その弟子であるウィリアム・ホイーラーが着任していた。ホイーラーは当時20代半ばの土木技術者であったが、わずか3年の任期の間に、今も残る札幌市時計台(旧農学校演武場)や、木鉄混合トラス構造の豊平橋を設計するなど活躍しており、国境を越えて貢献するその姿は、勇の進路に大きな影響を与えた。他に、セシル・ピーボディらから土木工学、数学、測量術、物理学などを学んだ。

在学中の1877年(明治10年)6月、勇ら同期生6人は、函館に駐在していたメソジスト系の宣教師メリマン・ハリスから洗礼を受けてキリスト教改宗した。勇は彼らの中でも非常に熱心な信者であったが、ある日内村鑑三に「この貧乏国に在りて民に食べ物を供せずして宗教を教うるも益少なし。僕は今よりは伝道を断念して工学に入る」と宣言し、内村らに伝道を託したという[3]

1881年(明治14年)7月に札幌農学校卒業後、官費生の規定に従い開拓使御用掛に奉職、11月には媒田開採事務係で鉄路科に勤務し、北海道最初の鉄道である官営幌内鉄道の小樽-幌内間工事に携わり、初めて小規模の鉄道橋梁建設に携わった。翌年開拓使の廃止にともない工部省に移り、鉄道局で日本鉄道会社の東京-高崎間建設工事の監督として、荒川橋梁の架設にあたった[4]

1883年(明治16年)12月、単身私費で横浜港からアメリカ合衆国に渡った。師ホイーラーらの紹介で中西部セントルイスの陸軍工兵隊本部の技術者に採用され、ミシシッピ川とミズーリ川の治水工事に携わった後、チャールズ・シェイラー・スミス(Charles Shaler Smith)の設計事務所で橋梁設計に従事した[2]。セントルイスでの両職場とも、当時世界最長のアーチ橋であり、鋼鉄を最初に用いた大規模橋梁でもあったイーズ橋のたもとにあり、強い印象を書き残している。当時スミスの事務所では、隣のケンタッキー州で北米初、かつ世界最長かつ最高高さのカンチレバー橋であるハイ橋(en:High_Bridge_of_Kentucky)を設計していた。

スミスの病没後は、はじめ南部バージニア州ロアノークにあるノーフォーク・アンド・ウェスタン鉄道、のちに北部デラウェア州の橋梁建設会社エッジ・ムーア・ブリッジ(Edge Moor Bridge)に移って技術者として働く傍ら、橋梁建築について英文で著した技術書『プレート・ガーダー・コンストラクション』(Plate-Girder Construction)を刊行した[2]。同書は、理論から実践的な標準設計までを貫く内容から、アメリカの大学で教科書として長く使用され、1914年には5刷が出るほど好評だったという[4][5]
教育者にして実務家

1887年(明治20年)、母校札幌農学校から、道庁への移管に伴い新設される工学科助教授への就任要請を受け、一旦ドイツカールスルーエ大学に1年間、シュトゥットガルト大学に半年間留学して土木工学と水利工学を研究、バウ・インジュニュール(土木工師)の学位を得た後、1889年(明治22年)に帰国。札幌農学校工学科の教授に就任した。講義は英語中心で行われた[2]。当時の工学科では卒業研究の題材に、道庁で実際に企画されている土木事業が選ばれており、研究成果は事業に活かされるなど、道庁土木機関のシンクタンクとしての機能も果たしていた[6]。こうした中から、岡崎文吉、平野多喜松らが巣立っていった。秋田港セリオンタワー)付近にある石碑。


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