月岡芳年『新形三十六怪撰』の内「皿やしき於菊乃霊」(1890年[明治23年][1])
皿屋敷に登場するお菊の亡霊を描いた作品。浮世絵で亡霊を描く場合は薄墨摺りとするもので[1]、枝垂柳の下に古い井戸を配した構図も定石通りだが[1]、本図のお菊の姿は江戸時代からのイメージを打破し[1][2]美しく澄んだ空気の中に描かれている[2]。
幽霊(ゆうれい)とは、以下を指す概念。 月岡芳年『月百姿』の内「源氏夕顔巻」(1886年[明治19年][5]) 幽霊というのは、小学館『日本大百科全書』でも、平凡社『世界大百科事典』でも「幽霊」の項目に、日本の幽霊と西洋の幽霊が並置する形で扱われている[8][9]。このように、洋の東西を問わず世界に広く類似の記載はあり、中世ヨーロッパにも[10]中国にも[11]、また、陸域のみならず世界の水域にもいるとする記述がある[12] 。 西洋でも、(日本同様に)人間の肉体が死んでも魂が死なずに現世でうろついたり、家宝を守ったり、現世への未練から現世にとどまったりする話は多くあり、霊が他人や動物にのりうつることもあるといわれる[8]。 こういった伝承は東洋,西洋世界各地にある。 幽霊は何かを告知したり要求するために出現するとされていた[9]。しかし、次第に怨恨にもとづく復讐や執着のために出現していると考えられるようになり、「幽霊は凄惨なもの」という印象が強められていった[9]。「いくさ死には化けて出ない」との言い伝えもあるが、凄惨な最期の姿を留めて出没する戦死者の亡霊の話は多く、平家武者の亡霊[* 1]はその典型であろう。幽霊の多くは、非業の死を遂げたり、この世のことがらに思いを残したまま死んだ者の霊であるのだから、その望みや思いを真摯に聴いてやり、執着を解消して安心させてやれば、姿を消すという[9]。なお、仏教的見地でこういった状態になった幽霊を「成仏した」と称するが、日本の幽霊は仏教の伝来以前から“居た”のであり、そもそもは古神道ないし神道の影響下にあって、成仏ではなく鎮魂されていた。 日本の仏式葬儀(仏教葬儀)で、願戻し
死んだ者が成仏できず姿を現したもの[3]
死者の霊が現れたもの[4]
概要
『源氏物語』「夕顔」の巻を下敷きとした謡曲「半蔀」「夕顔」を素材とした作品[5][6][7]。夕顔が六条御息所の生霊に憑り殺された屋敷を訪れた僧の前に、ユウガオの花の中から現れた夕顔の霊は、最後には僧の供養によって成仏を遂げる[6][7]。
日本『幽霊図(お雪の幻)』(円山応挙)
日本は島国であるためか、船幽霊など海の幽霊の話も多い。その内容とは例えば、幽霊船が現れて、幽霊が「柄杓を貸してくれ」というが、それを渡すとその柄杓で水を汲んで水(水してゆく船)にされてしまうといい、幽霊には柄杓の底を抜いてから渡さなければならない、とする[8]。紀伊国(現・和歌山県)に伝わる話では、幽霊船が出たら、かまわずぶつかってゆけば消えてしまうとされる[8]。
室町時代以降、幽霊は歌謡や歌舞伎のテーマとしても扱われるようになった[8]。
江戸時代後期の国学者・津村淙庵が寛政7年(1795年)に語ったところでは、7月13日[* 2]にかならず、難破船の船乗りの幽霊が、相模国(現・神奈川県)にある灯明台に参集したという[8]。
出遭った時点では幽霊と気づかず、実はすでに亡くなった人物であったと後になって気づくという話も、古今の別なく様々に語られている。古代においては『日本書紀』雄略天皇9年条(西暦465年の条)の記述を、近世においては『耳嚢』巻之五(寛政7年〈1795年〉)に記載されている亡くなった小侍の話がある。 幽霊は、江戸時代以前から怪談という形で伝承され、江戸時代には怪談噺などが大流行した。「雨月物語」「牡丹燈籠」「四谷怪談」などといった名作が創られ、また、講談や落語、草双紙、水墨画、浮世絵などで盛んに描かれた。現在も題材として新作から古典の笑話・小説・劇などに用いられ、その他の様々な媒体で登場し紹介される。 文政8年6月11日[* 3](1825年7月26日)に江戸の芝居小屋「中村座」で『東海道四谷怪談』が初公演されたことに因んで、7月26日は「幽霊の日」となっている。 鳥山石燕『画図百鬼夜行』「幽霊」/安永5年(1776年)の作。描かれているのは、夜の墓場の枝垂柳の間から現れ出た女の幽霊で、額烏帽子 日本では幽霊は古くは生前の姿で現れ[9]、歌謡などの中でもそのように表現されていた[9]。
伝承される文化・芸術として
幽霊の姿かたち、現れる場所、時刻