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四つ葉のクローバーを見つけると幸福になれるという伝説がある
幸福(こうふく、希: ε?δαιμον?α、羅: felicitas、英: happiness)とは、心が満ち足りていること[1]。幸せ(しあわせ)ともいう。人間は古来、幸福になるための方法に深い関心を寄せてきた。
幸福についての考察や、幸福であるためにはどのような生き方をすべきであるか、その方法論を提示した文章・書物は「幸福論」(eudaemonics)と呼ばれている。幸福を倫理の最高目的と考え、行為の基準を幸福におく説を幸福主義という。古典的にはアリストテレスが典型であり、近代哲学では功利主義がその典型である。
本記事ではまず、哲学者や思想家や宗教家などによって幸福についてどのような考え方が提示されてきたのか見てゆく。→#哲学、思想、宗教における考え
その次に、近年の統計的な調査や精神医学的な調査・研究で明らかになった知見なども紹介することにする。→#統計的、精神医学的調査・研究
哲学、思想、宗教における考え
ソクラテスソクラテス(469??399 B.C.)
ソクラテスは、「生きること」以上に「よく生きること」を重視し、正しく知ることが重要であると説いた。
アリストテレスアリストテレス(384?322 B.C.)
アリストテレスは『ニコマコス倫理学』において、幸福とはだれもが求める目標である、その特徴は、それが究極目標であること、つまりもはやそれが何かほかのものの手段にはなりえない、という点にある、と述べた[2]。つまり幸福は、それ自体のために求められる最高善であるとし、自足的で永続的な状態である、と見なした[2]。幸福が最高目標、永続的であるのに対して、実生活の具体的な活動の過程で得られる快は安定性も永続性も欠いている、とし[2]、幸福主義を唱えた。
またアリストテレスは、幸福とは、政治を実践し、または人間のプシュケー(=心、霊魂)の固有の形相である理性を発展させることであるとした。 ヘレニズム期の哲学においては、幸福について考えが分かれる二つの学派があったとされる。ストア派とエピクロス派である。 ストア派では、宇宙全体を貫くロゴスとの合一に幸福の理想が求められ[2]、理性に従い欲望を制御して、どんなことがあっても動じない状態、即ちアパテイア
ヘレニズム期の考え方
ストア派
ストア派は理性に従い徳を高めることが幸福であるとする一種の主知主義の立場である、ともされる。
エピクロス派
エピクロス派は「快楽を得ることが幸福であるとした」などとされ、快楽主義などと表現される。ただし、エピクロス自身が言っていたことは、現代人がつい思い描いてしまうような、単純に享楽を求めるような"快楽主義"ではない。
エピクロス自身は、快を「感覚的な快」と、「精神的な快」に分けて考えていた[2]。前者は生き物に共通の反応ではあるが、人間あるいは賢者にとっての幸福というのは、精神的な快であるとし、アタラクシアである、としていたのである[2]。アタラクシアとは、静かな心の平安、あらゆる苦痛と混乱を免れた精神の安定した境地のことである。ヘレニズム期の幸福論を考察する時に、両派は対比され、一般にストア派は「禁欲主義」、エピクロス派は「快楽主義」と呼ばれ、てはいるが[注釈 1]、このように静かな心の穏やかさを目指した面では軌を一にしている。「これら(両派)はいずれも、外部とのかかわりを可能なかぎり断って、もっぱら内面における安定ないし自足のうちに幸福の実現の可能性を求める立場であった[2]」とも。欲望をどのように扱うかが、幸福論の中心的な課題であったとも。