幸州山城の戦い
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幸州山城の戦い
戦争:
文禄の役
年月日:文禄2年(1593年)2月12日
場所:朝鮮国京畿道
結果:朝鮮側は幸州山城を放棄
交戦勢力
李氏朝鮮日本豊臣政権
指導者・指揮官
権慄宇喜多秀家
文禄・慶長の役


釜山鎮

多大鎮

東莱城

鵲院関

金海城

尚州

忠州

玉浦・合浦・赤珍浦

臨津江

泗川浦

唐浦

唐項浦

龍仁

栗浦

大同江

閑山島

梨峙

第1次錦山

安骨浦

オランカイ侵攻

第1次平壌

海汀倉

第2次平壌

第2次錦山

釜山浦

第1次晋州

第3次平壌

碧蹄館

幸州山城

熊浦

第2次晋州

第2次唐項浦

場門浦・永登浦

漆川梁

南原城

黄石山城

稷山

鳴梁

第1次蔚山城

順天城

第2次蔚山城

泗川

順天

露梁

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幸州山城の戦い(こうしゅうさんじょうのたたかい)は、文禄・慶長の役において、1593年(文禄2年)2月12日に、朝鮮半島漢城西方に位置する、幸州山城(現在の高陽市徳陽区幸州内洞)で行われた戦闘。
目次

1 背景

2 地形

3 攻城軍

4 攻城

5 戦闘後

6 脚注

背景

1592年(文禄元年)、豊臣秀吉の出兵により文禄の役が始まると、日本軍は緒戦で占領地を広げた。李氏朝鮮宗主国を頼み、万暦帝は大軍を派遣して、同年末から明の反攻が始まった。1593年(文禄2年)1月8日李如松小西行長の守る平壌を奪還し、更に南下した李如松の率いる明軍は、26日からの碧蹄館の戦いで日本軍の迎撃を受けて打ち破られ、臨津江を渡って退却した。

一方、全羅道方面では権慄の率いる朝鮮軍が水原の禿城山城を拠点に守勢を布いていたが、明軍による平壌奪回と南進に呼応して、幸州山城へ進出した。権慄は約4000の兵力のうち、2300を直率して城に籠もる他、残りの約2000を宣居怡に指揮させて、城外の後巻として配置した。
地形

幸州山城は現在の大韓民国京畿道の中西部の高陽市に位置し、当時日本軍が占領していた漢城から約14kmであった。


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