幸地 賢忠(こうち けんちゅう、天啓3年<尚豊王3年>6月15日(1623年7月2日) - 康熙22年<尚貞王15年>12月10日(1684年1月26日))は、琉球国(第二尚氏王統)の音楽家。琉球古典音楽の祖と評される。
唐名は夏徳庸(か とくよう)、字は顧行、童名は思次郎、号は愽菴・湛水。称号は親方で、湛水親方(たんすいうぇーかた)の名で知られる。 1623年、上級士族である幸地親方賢盈の次男として生まれ、13歳で小赤頭(こあくがみ)として王府に出仕、17歳で欹髻を結った(元服)。摂政を務めた羽地朝秀の従弟にあたるため重用され、4度にわたって薩摩を訪れた。大和の音楽や芸能にも通じていたが、三線や歌をはじめとする琉球音楽を大成させた。これは、日琉同祖論をとり琉球固有の文化に否定的であった羽地朝秀と相容れず、1673年に禁を犯して妓女を側室にしたことを契機に官を罷免されて具志川間切に蟄居させられた。1675年に羽地朝秀が没したのち、恩赦を受けて首里に戻った。1683年に61歳で没した。 幸地賢忠は、首里節・諸鈍節・作田節・早作田節・揚作田節・ぢゃんな節・暁節などを作曲したといわれている。その一門は湛水流
生涯
越来親方賢雄の七世孫。
父:幸地親方賢盈