この項目では、大阪市平野区の地区名について説明しています。大阪市中央区平野町については「平野町 (大阪市)」をご覧ください。
.mw-parser-output .pathnavbox{clear:both;border:1px outset #eef;padding:0.3em 0.6em;margin:0 0 0.5em 0;background-color:#eef;font-size:90%}.mw-parser-output .pathnavbox ul{list-style:none none;margin-top:0;margin-bottom:0}.mw-parser-output .pathnavbox>ul{margin:0}.mw-parser-output .pathnavbox ul li{margin:0}日本 > 近畿地方 > 大阪府 > 大阪市 > 平野区 > 平野 (大阪市)
平野
ひらの
国 日本
地方近畿地方
都道府県大阪府
自治体大阪市
旧自治体平野郷町
大阪市役所平野区役所本庁
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度37分16.18秒 東経135度32分45.6秒 / 北緯34.6211611度 東経135.546000度 / 34.6211611; 135.546000
平野(ひらの)は、大阪府大阪市平野区の地区名。広義に坂上田村麿の子である坂上広野麿からひろのがなまってひらのと言う名称になったと言われていて平野区全体を指す場合もあるが、地区名としてはかつて環濠都市・自治都市を形成していた平野郷町の本郷七町だった地区を指す。
本項では大阪市編入以前の東成郡平野郷町(ひらのごうちょう)についても述べる。
歴史の東部にあたり、難波京と斑鳩・平安京を結ぶ古代道路である渋川道(のちの竜田越奈良街道)が通っており、昔から交通の要所であった。後には中高野街道の起点にもなった。
平安時代初期に坂上田村麻呂の次男である坂上広野麻呂の荘園があったことから、「平野」という地名は「広野」からの転訛によるといわれている。862年(貞観4年)には広野麻呂の子の坂上当道が八坂神社を勧請して杭全神社が創建されている。
広野麻呂の荘園はその後、摂関家の九条家を通じて宇治平等院へ寄進され、織田信長の直轄地となるまでの約500年間は平等院領であった。荘園は杭全荘と呼ばれていたが、鎌倉時代頃から平野荘とも別称された。
1127年(大治2年)に大念仏寺が開基されると、門前町が形成されるようになった。戦国時代になると、町の周りに二重の濠と土居を巡らせ、13ヶ所の出入口には門と門番屋敷が設置された。なお、門の脇には地蔵堂も建てられ、12の地蔵堂が現存している。濠内は坂上氏の末裔と称する平野七名家による自治が行われるようになり、七名家が権力を有する以下の本郷七町に分かれていた。
馬場町(成安氏)
泥堂町(則光氏→黒瀬氏(井上氏))
市町(利国氏→土橋氏)
野堂町(末吉氏)
流町(利則氏→三上氏)
背戸口町(安国氏→辻葩氏)
西脇町(安宗氏→西村氏)
織田信長が台頭すると、同じように環濠都市・自治都市であった堺の会合衆から協力要請を受けるほどであったが、結局は信長に屈服した。豊臣秀吉が天下統一を果たすと、町の有力商人は大坂城下へ移住させられた。なお、移住先は徳川期には城下ではなく東成郡北平野町村・南平野町村となっていた所で、現在の中央区東平・上汐および天王寺区上汐などに当たる。大坂の陣では七名家の筆頭ともいえる末吉氏が徳川方に尽力し、平野に徳川秀忠の陣が設けられた。
1615年(元和元年)、末吉氏は平野および河内国志紀郡・河内郡の代官に任ぜられ、大坂の陣で灰燼に帰した平野の復興を行い、環濠も再度掘り直された。さらに、度重なる洪水に見舞われた志紀郡柏原村の復興の一環として、1636年(寛永13年)に柏原村と大坂城下を結ぶ柏原舟が平野の環濠と連結する平野川に通うようになった。平野は1671年(寛文11年)には馬継場にも指定されて水運・陸運双方の恩恵を受けるようになり、河内木綿の集散地として発展した。
1702年(元禄15年)、本郷七町とその西方に位置する今林村・新在家村・今在家村・中野村の散郷四村を統合して平野郷町となり、野堂町に惣会所が設置された。1708年(宝永5年)には鎌倉時代に始まったとされる杭全神社の連歌所が再建され、1717年(享保2年)には郷学の含翠堂が開設された。
1879年(明治12年)に散郷四村が分離し、1883年(明治16年)には本郷七町もそれぞれ平野を冠称して分離したが、1889年(明治22年)の町村制施行時に本郷七町が合併して自治体としての平野郷町が発足した。なお、散郷四村は今林村・新在家村・今在家村が桑津村と合併して北百済村、中野村が砂子村・鷹合村・湯谷島村と合併して南百済村の各一部となった。
1925年(大正14年)に大阪市へ編入。1927年(昭和2年)、平野流町に大阪府女子師範学校が新設移転。
1934年(昭和9年)9月21日、室戸台風による暴風雨。平野小学校の木造校舎が強風により倒壊するなどして多数の死傷者が出た[1]。
1930年(昭和5年)から土地区画整理事業を開始して平野郷の周囲も宅地化されていき、かつての面影は少なくなっていった。環濠の大半は埋め立てられ、杭全神社近辺に200m程度しか残っていない。1999年(平成11年)から大阪市のHOPEゾーン事業によって平野郷の景観復元や文化保存などの取り組みが行われた。 ひらのごうちょう
自治体としての沿革
平野郷町
廃止日1925年4月1日
廃止理由編入合併
天王寺村、平野郷町、喜連村、北百済村、南百済村、田辺町、依羅村、長居村、墨江村、住吉村、安立町、敷津村 → 大阪市(住吉区)
現在の自治体大阪市
廃止時点のデータ
国 日本
地方近畿地方
都道府県大阪府
郡東成郡
市町村コードなし(導入前に廃止)
総人口14,531人
(国勢調査、1920年)
隣接自治体東成郡北百済村、南百済村、喜連村
中河内郡巽村、加美村、龍華村
平野郷町役場
所在地大阪府東成郡平野郷町宮町
座標北緯34度37分16.2秒 東経135度32分45.6秒 / 北緯34.621167度 東経135.546000度 / 34.621167; 135.546000 (平野郷町)
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