.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}平野 義太郎(ひらの よしたろう)人物情報
生誕 (1897-03-05) 1897年3月5日
日本東京市京橋区
死没1980年2月8日(1980-02-08)(82歳)
学問
研究分野法学(民法、ゲルマン法)
テンプレートを表示
平野 義太郎(ひらの よしたろう、1897年3月5日 - 1980年2月8日[1])は、日本のマルクス主義法学者、中国現代史研究者、平和運動家。父は建築家の平野勇造で、石川島造船所(現・IHI)創業者・平野富二は祖父に当たる。 1897年、東京市京橋区築地に生まれる。父の勇造は平野富二の娘婿で養子であったが、1899年に祖母(富二の未亡人)の介入により離縁されたという[2]。勇造と別れた後、義太郎は平野家の家督を継いだ[3]。 東京開成中、第一高等学校を経て、1921年、東京帝国大学法学部卒、同助手。1923年、東京帝国大学法学部助教授[4]。同年、実業家安場末喜の娘嘉智子と結婚、媒酌人は穂積重遠夫妻と鶴見祐輔夫妻であった[5]。 1924年、産業労働調査所に入り、社会主義の実践運動に参加するようになった[6]。1927年-1930年、フランクフルト大学に留学してマルクス主義を研究する。カール・ウィットフォーゲルやヴィルヘルム・ヴントの講義を受講。ドイツ共産党日本語部との交流もあった[7]。 1930年、帰国後、共産党シンパ事件
来歴
もともとは民法、ゲルマン法の研究者として出発したが、1932年に野呂栄太郎らと『日本資本主義発達史講座』を編集し[1]、講座派の論客として知られるようになった。
1936年7月にはコム・アカデミー事件で警視庁特高一課に検挙され、高輪警察署で8か月にもわたる厳しい取り調べを受けた。他の検挙者が次々と転向する中で頑なに転向拒否を続けたが、同年12月には理論と立場を清算して転向を表明[8]。1937年(昭和12年)3月になり、ようやく釈放された[9]。
1946年、民主主義科学者協会(民科)に参加、1948年民科東京支部長。1949年、平和を守る会書記長、日本学術会議会員、日本中国友好協会副会長に相次いで就任し多方面で活動した[10]。戦争中の大東亜戦争賛美により戦後は教職追放。その後復権し、1956年2月から20年間にわたって日本平和委員会会長を務めるなど、平和運動家となる。しかし1976年6月に日本平和委員会会長を解任されて名誉会長にさせられ、晩年は共産党陣営内で半ば失脚状態であった[11]。
中国研究家でもあり、(社)中国研究所を創設して所長を務めた(1946年?1960年)ほか[1]、現代中国学会(現、日本現代中国学会)幹事長・会長(1951年?1960年)に就任する。(いずれも初代)
1953年に行われた第3回参議院議員通常選挙の全国区に無所属で立候補し、10万を越える票を得たが落選している[12]。
1967年、文化大革命の影響で中国研究所から除名される。1968年、龍谷大学法学部教授に就任[1][10]。