平賀源内
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プロジェクト‐ノート:LGBT#歴史上の人物に、このページに関する質問があります。(2022年4月)
「平賀鳩渓肖像」 木村黙老著『戯作者考補遺』(写本)より ⇒[1]。黙老は高松藩の家老で、源内の死から六十五年を経た弘化2年 (1845年) に源内と親交があった祖父や源内をよく知る古老の話などをもとにしてこの肖像を描いた。慶應義塾図書館所蔵。

平賀 源内(ひらが げんない、享保13年(1728年) - 安永8年12月18日1780年1月24日))は、江戸時代中頃の人物。本草学者地質学者蘭学者医者殖産事業家戯作者浄瑠璃作者俳人蘭画家発明家

源内は通称で、元内とも書いた。は.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}国倫(くにとも)[1]または国棟(くにむね)、は子彝(しい)。数多くの号を使い分け、画号の鳩渓(きゅうけい)、俳号の李山(りざん)や、戯作者としては風来山人(ふうらいさんじん)[1]、浄瑠璃作者としては福内鬼外(ふくうちきがい)[1]筆名を用い、殖産事業家としては天竺浪人(てんじくろうにん)、生活に窮して細工物を作り売りした頃には貧家銭内(ひんかぜにない)[2] などといった別名も使っていた。
来歴平賀源内の肖像、中丸精十郎(1841-1896)筆[3]平賀源内作のエレキテル(複製)国立科学博物館の展示

讃岐国寒川郡志度浦[4](現在の香川県さぬき市志度)の白石家の三男として生まれる。父は白石茂左衛門[4](良房)、母は山下氏。兄弟が多数いる。白石家は讃岐高松藩足軽身分の家で、源内自身は信濃国佐久郡信濃源氏大井氏平賀氏の末裔と称したが、『甲陽軍鑑』によれば戦国時代の天文5年(1536年)11月に平賀玄信の代に甲斐武田信虎による侵攻を受け、佐久郡海ノ口城において滅ぼされた。後に平賀氏は奥州白石に移り伊達氏に仕え白石姓に改め、さらに伊予宇和島藩に従い四国へ下り、讃岐で帰農した伝承がある。源内の代で姓を白石から平賀に復姓したと伝わる。

幼少の頃には掛け軸に細工をして「お神酒天神」を作成したとされ、その評判が元で13歳から藩医の元で本草学を学び、儒学を学ぶ。また、俳諧グループに属して俳諧なども行う。寛延元年(1748年)に父の死により後役として藩の蔵番となる[5]宝暦2年(1752年)頃に1年間長崎へ遊学し、本草学とオランダ語医学油絵などを学ぶ。留学の後に藩の役目を辞し、妹に婿養子を迎えさせて家督を放棄する。

大坂京都で学び、さらに宝暦6年(1756年)には江戸に下って本草学者田村元雄(藍水)に弟子入りして本草学を学び、漢学を習得するために林家にも入門して聖堂に寄宿する。2回目の長崎遊学では鉱山の採掘や精錬の技術を学ぶ。

宝暦11年(1761年)には伊豆で鉱床を発見し、産物のブローカーなども行う。物産博覧会をたびたび開催し、この頃には幕府老中田沼意次にも知られるようになる。

宝暦9年(1759年)には高松藩の家臣として再登用されるが、宝暦11年(1761年)に江戸に戻るため再び辞職する[5]。このとき「仕官お構い」(奉公構)となり[6]、以後、幕臣への登用を含め他家への仕官が不可能となる。

宝暦12年(1762年)には物産会として第5回となる「東都薬品会」を江戸の湯島にて開催する。江戸においては知名度も上がり、杉田玄白中川淳庵らと交友する。

宝暦13年(1763年)には『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』を刊行[1]。オランダ博物学に関心をもち、洋書の入手に専念するが、源内は語学の知識がなく、オランダ通詞に読み分けさせて読解に務める。文芸活動も行い、談義本の類を執筆する。

明和年間には産業起業的な活動も行った。明和3年(1766年)から武蔵川越藩秋元凉朝の依頼で奥秩父の川越藩秩父大滝(現在の秩父市大滝)の中津川で鉱山開発を行い、石綿などを発見した(現在のニッチツ秩父鉱山)。秩父における炭焼、荒川通船工事の指導なども行う。現在でも奥秩父の中津峡付近には、源内が設計し長く逗留した建物が「源内居」として残っている。

安永2年(1773年)には出羽秋田藩佐竹義敦に招かれて鉱山開発の指導を行い、また秋田藩士小田野直武に蘭画の技法を伝える。

安永5年(1776年)には長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を修理して復元する。

安永8年(1779年)夏には橋本町の邸へ移る。大名屋敷の修理を請け負った際に、酔っていたために修理計画書を盗まれたと勘違いして大工の棟梁2人を殺傷したため、11月21日に投獄され、12月18日に破傷風により獄死した。享年52。

獄死した遺体を引き取ったのは狂歌師の平秩東作ともされている。杉田玄白らの手により葬儀が行われたが、幕府の許可が下りず、墓碑もなく遺体もないままの葬儀となった。ただし晩年については諸説あり、上記の通り大工の秋田屋九五郎を殺したとも、後年に逃げ延びて書類としては死亡したままで、田沼意次ないしは故郷高松藩(旧主である高松松平家)の庇護下に置かれて天寿を全うしたとも伝えられるが、いずれも詳細は不明。大正13年(1924年)、従五位を追贈された[7]
墓所平賀源内墓、さぬき市志度の自性院。

戒名は智見霊雄。


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