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出典検索?: "平良広"
凡例平良広
時代平安時代前期
生誕承和2年5月6日(835年6月5日)?
死没延長6年10月20日(928年12月4日)?[1][要出典]
別名良弘
氏族桓武平氏高望王流
父母父:平高望
兄弟国香、良兼、良将、良広、良?、良文、良茂、良正、藤原維幾室ら
妻紀氏娘・久米子、物部氏娘・ 紗和
子経広[2]、正勝、光右衛門ら
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平 良広(たいら の よしひろ、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:平󠄁 良廣)は、平安時代前期の人物。良弘とも呼ばれる。土佐国の宇賀氏の祖と伝わる。 仁明朝の承和2年5月6日、桓武天皇第三皇子葛原親王の子、高望王(京都右京)の四男または六男として生まれる。兄に国香・良兼・良将(平将門の父)が、弟に良?・良文・良茂・良正[3]がいる。 父・高望は上総介として、国香・良兼・良将など三人の息子を引き連れて関東に根を張るが、四男の良広は姻戚関係にあった紀家が絡んだ応天門の変に連座して紀夏井と共に土佐に流された。
概要
天安2年(858年、良広24歳) - 長子誕生。
貞観2年(860年、良広26歳) - 次子誕生。
貞観3年(861年、良広27歳) - 父高望王(当時56歳)、清和天皇の勅命で平朝臣姓を賜る。
貞観8年(866年、良広32歳) - 3月末の大極殿前応天門炎上が伴大納言一味の放火であるとされ、「縁座の法」により、紀秋城の異母兄、紀夏井朝臣と共に土佐に流される。京都には、妻の紀久米子と長男(8歳)次男(6歳)長女菊姫の4人を残す。
貞観10年(868年、良広34歳) - 佐古(現、高知県香南市野市町佐古)にて、紀夏井の旅愁を慰めるために呼んだ、琴の名手で美貌類いまれなる巫女、物部紗和比女(当時18歳)と出会う。