平良兼
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 凡例平良兼
時代平安時代中期
生誕貞観18年(876年)1月11日?[1]
死没天慶2年(939年)6月
官位従五位上上総介鎮守府将軍[2]
氏族桓武平氏高望王流(坂東平氏
父母父:平高望、母:藤原良方
兄弟国香、良兼、良将良?良広良文良茂良正、藤原維幾室ら
妻継室:源護
公雅公連、公元、平将門
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平 良兼(たいら の よしかね)は、平安時代中期の武将平高望の次男。
略歴

生年を貞観18年(876年)とする史料がある[1]

父・高望は、寛平元年5月13日889年6月14日)、宇多天皇により平姓を賜与され臣籍降下し、昌泰元年(898年)に上総介に任じられ上総国に下向、武射郡屋形を本拠とした。高望と共に下向した良兼は、高望の上総介の任期が過ぎても帰京せず父に次いで上総介を勤めるなどし、上総や下総国に勢力を拡大、その後各地に広がる高望王流桓武平氏の基盤を固めた[3]

平国香は、平貞盛やその子孫が後世活躍したことによって結果的に嫡流と見做されるようになったのであって、元から嫡子であったというわけではなかった。逆に元々族長であったのは良兼であり、良兼は源護一族を含んだ「姻?の長」として、平高望の基盤(上総国)を受け継ぎ、常総の内海を媒介とし、上総から下総、下野にまで勢力を広げ、関東の桓武平氏の族長として卓越していた[4]

甥であり聟でもある将門とはかねてから不仲であり[5]、兄・国香が、将門と舅の源護の息子らの抗争に巻き込まれ死亡した際には不介入であったものの、将門にとっては伯父にあたる良正[6]をも打ち破るに至って武力介入し、将門との対立の中心に立つようになる。父・国香を死に追い込んだ将門との和平路線を取る甥の貞盛を批判・説得して味方に引き入れ、下野国を目指し出陣した。承平6年(936年)6月、良正・貞盛と共に下野国境にて将門と合戦になり数では圧倒的に勝るも敗れ、下野国府に退却。国府は包囲されるも、将門は包囲の一角を解きあえて良兼を逃した。

その後源護の告状によって、将門はに召喚され裁きを受ける事となるが、承平7年(937年)4月、朱雀天皇元服大赦で罪を許され5月に帰国。すると同年8月6日、良兼は将門の父「良将」や「高望王」など父祖の霊像を掲げて(これは高望王?良将と続いてきた平氏の嫡流としての地位を受け継ぐ者として行ったものであった[7])将門の常羽御厩を攻め、今度は将門を敗走させて常羽御厩を焼き討ちした[8]。すぐさま兵を再編した将門に反撃されるも再びそれを退け、その際、密告のもと将門の妻子(つまり良兼の娘と孫)を捕らえ、上総に連れ帰る。だが、息子の公雅公連が手助けして9月10日に再び出奔し将門の元に戻ってしまう[9]

その後も将門との争いが続くなか、11月5日将門の訴えに応えた朝廷により武蔵安房・上総・常陸・下野などの国々に良兼ら追捕の官符が下ってしまう。これにより将門と良兼は公的に立場が逆転し将門は力を得て勢い付いたものの、各地の国司は官符を受けても平一族と争うことを躊躇して動くこともなく、また官符が出された国々の実質統治者は平一族当人らである為に、何の効果もなかったのではないかといわれている。良兼は12月14日938年1月17日)将門の駈使である丈部子春丸を買収して石井の営所の内情を探り夜襲をかけるも察知され逆襲を受け敗走、これ以降良兼の勢力は衰退し、天慶2年(939年)6月に病死した。
系譜

父:
平高望

母:藤原良方の娘

妻:源護の娘

生母不明の子女

男子:平公雅(?-?)

男子:平公連(?-?)

男子:平公元(?-?)

女子:平将門


脚注[脚注の使い方]^ a b 須藤春峰『東北中世史 岩城氏とその一族の研究』白銀書房、1975年
^ 『将門略記』や『尊卑分脈』等では良兼を「下総介」としているが、『桓武平氏系図』(「続群書類従」所収)では「上総介」、『系図纂要』 では「上総介、鎮守府将軍」としている。
^ 上総国武射郡の屋形の他、常陸国真壁郡の羽鳥にも良兼の居館が在ったとされている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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