凡例平維茂
平維茂戸隠山に悪鬼を退治す図(月岡芳年『新形三十六怪撰』)
時代平安時代中期
生誕天延4年(976年)以前[1]
死没治安3年(1022年)?
別名大掾維茂、余五君、余五将軍、維望、維良?
墓所上田市別所、阿賀町平等寺
官位従五位上、鎮守府将軍、左衛門督?[2]、信濃守?、出羽介?
氏族桓武平氏国香流(大掾氏)
父母父:平兼忠?[3]、平繁盛?[4]、養父:平貞盛、母:斎部俊成
平 維茂(たいら の これもち)は、平安時代中期の武将。大掾維茂とも呼ばれる。
野口実や森公章などは、「維茂と維良の活動時期が丁度空白同士を埋めるものであること」「維良は摂関家と結びついていたが、維茂やその後裔・城氏が拠点としたのが越後国の奥山荘であり、奥山荘が摂関家の所領であること」などから、維茂は平維良と同一人物であるとした[7]。 平兼忠の子として誕生。生年は不明であるが、兼忠の長子で、しかも平貞盛の養子となっていることから、950年から970年代の頃に生まれたと考えられる[8]。 天元3年(980年)に父・兼忠は出羽介で叙爵も済んでおり、この時にはすでに壮年に達していたはずである。また、養父である貞盛は貞元元年(976年)12月21日に石清水行幸料の御馬等の貢進の記事を最後に史料から姿を消しており、程なく死去したものと考えられるから、維茂の出生は少なくともこれ以前となる[8]。 貞盛は多くの養子を取っており、子としては15番目だったことから、余五(十を超えた余りの五)君、また後に将軍となったと伝えられることから余五将軍と言われる。貞盛は甥や甥の子を集めて養子となし、武士団を構成していたが、貞盛の直系と繁盛の子孫とでは、官途に明確な差異が存在した。前者は蔵人、あるいは滝口の武士から衛府尉に進み受領に至る昇進コースを辿ったが、後者は地方軍事貴族の位職にとどまった[9]。
生涯
実際の維茂が初めて歴史の表舞台に現れるのは、『今昔物語集』巻第25第5「平維茂、藤原諸任を罰ちたる語」である。この逸話は、藤原実方が登場することから、長徳4年(999年)前後の出来事であった(『寛政重修諸家譜』「鈴木氏系図」では長保年間のこととされる。また、同系図によれば、この時維茂は出羽介であったという)。
当時、維茂は「国の内の然るべき兵」「国の然るべき者」として陸奥国府に詰めていた[10]。
維茂は陸奥国において、沢胯(現・福島市)四郎・藤原諸任という有力者と、所領を巡って争論になり、国司・藤原実方が調停に入っても解決には至らず、そのまま国司が死亡してしまい、ついに互いに軍勢を集めて武力衝突寸前となった。維茂の軍は約3000人、諸任の軍は約1000人であり、劣勢と見た諸任は、戦いを回避したい旨を維茂に伝え、維茂も軍を解散したため、軍事衝突は回避された。
だが数ヶ月後、諸任の軍勢が突如維茂の屋敷を夜襲した。維茂は妻子(子供は後の平繁貞)と裏山に逃げ、家臣たちが必死に抗戦するも、屋敷は焼かれ、80人程が殺されてしまう。遺体は焼け焦げていて、人の判別がつかなかったものの、諸任は維茂も死亡したと思い、撤兵した。その後、諸任は事の顛末を報告するため、妻の兄である大君(橘好則)の屋敷に立ち寄った。好則は「維茂の首を取るまでは安心できない」と主張するが、諸任は「館を包囲して全て焼き払ったので問題ない」と聞く耳を持たなかった。好則の屋敷を去った後、諸任の軍は戦勝を祝して野外で宴会を開いた。
夜が明けると、維茂の災難を知った一族郎党の者たちが駆けつけた。郎党たちは「後日また準備を整えて諸任を殺しましょう」と進言したものの、それに対して維茂は「たとえ勝算が無くとも、武士として命がけで恥をすすぐべき」と主張し、郎党たちもこれに同意したため、100あまりの兵馬を集め、出陣した。
その頃、夜を徹して戦った諸任の軍勢4.500人は、酒に酔って野原で寝ていたが、維茂の軍はそこに襲いかかり、諸任を殺害した。さらに、維茂軍はそのままの勢いで諸任の屋敷をも襲撃した。維茂はまず諸任の妻を捕らえ、逃した後に、諸任の家に火をつけ、男は皆殺しにした。