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凡例平 維盛
『英雄百首』(歌川貞秀画)
時代平安時代末期
生誕平治元年(1159年)[1]
死没寿永3年3月28日(1184年5月10日)?
改名維盛、浄円
別名惟盛、権亮三位中将、小松三位中将、
桜梅少将、光源氏
戒名千手院殿前三位中将義山貞公大居士
墓所奈良県吉野郡十津川村五百瀬(旧南望山宝蔵寺
平 維盛(たいら の これもり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の嫡子平重盛の嫡男。
美貌の貴公子として宮廷にある時には「光源氏の再来」と称された。治承・寿永の乱において大将軍として出陣するが、富士川の戦いで敗北し、倶利伽羅峠の戦いでは壊滅的な敗北を喫する。父の早世もあって一門の中では孤立気味であり、平氏一門が都を落ちたのちに戦線を離脱、那智の沖で入水したとされている。 平治元年(1159年)、平氏棟梁である平清盛の嫡男・重盛の長男として生まれる。 母は官女とされるが、出自など詳細は不明[3]。重盛には妻として平時信の娘で掌侍で内裏女房だった坊門殿がおり、維盛の母をこれに比定する説もある[3][4]。坊門殿は清盛の後妻の平時子の妹で、その兄妹には時忠や建春門院滋子がいる。維盛が坊門殿の子であれば、宗盛達や高倉天皇とは従兄弟という間柄になる。 維盛は『尊卑分脈』『公卿補任』『平家物語』等では重盛の嫡男とされている[3]。 一方で維盛は仁安2年(1167年)2月7日に叙爵され、美濃権守となっているが、異母弟資盛は前年の11月21日に叙爵、11月30日に越前守となっている[5]。九条兼実の日記『玉葉』の嘉応2年(1170年)7月23日条では、資盛を「嫡男」と記していることなどから、この時点では資盛が嫡子であったという説や、実際には資盛が年長であったという説もある[5]。嘉応元年(1169年)正月には、資盛とほぼ同時に従五位上に昇進している[6]。 嘉応2年(1170年)7月、資盛は殿下乗合事件の当事者となり、以降の昇進が停滞する[6]。事件が一応解決を見せた12月、父の重盛が権大納言を病のため辞したが、その際に維盛を右近衛権少将に推挙している[6]。高橋秀樹はこの時期に維盛が嫡子にされたのではないかとしている[7]。維盛12歳の時である。承安2年 (1172年)、藤原成親の次女・新大納言局を正室に迎える。この年には叔母の平徳子が中宮となったのに伴い、中宮権亮となった。『玉葉』に維盛が登場するのはこの頃が初めてであるが、「14歳であるというのに作法が優美で人々が驚嘆している」と兼実は記している[6]。 安元2年(1176年)3月、後白河法皇50歳の祝賀が行われた。この祝賀での維盛の様子は『玉葉』や『安元御賀日記』、『建礼門院右京大夫集』などで詳細に記されており、『平家物語』や『平家公達草子
生涯歌川芳虎『大日本六十余将』の維盛
誕生と維盛の生母
初期の官歴
安元御賀
3月5日には舟遊びが催され、優れた笛の演奏を賞された[8]。
3月6日には烏帽子に桜の枝、梅の枝を挿して「青海波」を舞い、その美しさから桜梅少将と呼ばれる。また『建礼門院右京大夫集』では「今昔見る中に、ためしもなき(美貌)」とされ、その姿を光源氏にたとえている。さらに平家を嫌う九条兼実も「容顔美麗、尤も歎美するに足る」と評している[9]。 治承3年(1179年)7月、清盛の後継者と目されていた父・重盛が病死し、叔父の平宗盛が平氏の棟梁となると、維盛ら重盛の息子達は平氏一門で微妙な立場となる。重盛の母方には有力な親族がおらず、鹿ケ谷の陰謀で殺害された藤原成親の妹が妻であったことで、重盛の後継者としての地位が生前から揺らいでいた。また、維盛自身も成親の娘を娶っていたことがいっそう影響していた。そうした中で重盛の死後に後白河法皇が重盛の知行国越前国を没収したことは、重盛の遺児である維盛らの生活基盤を脅かすものであり、重盛一族(小松家)の離反回避に努めていた清盛を強く刺激した。一知行国に過ぎない越前国を巡る対立が治承三年の政変による後白河法皇幽閉にまで発展した背景には、清盛と重盛及びその子供達との微妙な関係があったと考えられている[10]。 治承4年(1180年)5月26日、以仁王の挙兵では大将軍として叔父・平重衡と共に反乱軍を追討すべく宇治に派遣される。
重盛の死
平家の大将