平等主義(びょうどうしゅぎ、英: egalitarianism[1], equalitarianism, equalism、仏: egalitarisme)とは、特定の資格・能力・責任・義務を有する範疇内の人間達、もしくは全ての人間(万人)が法的・政治的・経済的・社会的に公平・同等に扱われるようになることを志向する思想・信条・主張のことである。
自由主義などと共に、近代における人権概念を支える主要な柱である一方、人権概念そのものが、そもそも平等主義に立脚している(そうでなければ、「人権」という概念そのものが成立しない)。その点で、平等主義は近代政治社会思想における他の一切の思想・信条・主張に対して優越しており、近代政治社会思想の根幹を成している。そして、当然のことながら民主制と不可分な関係にある。 平等主義はその性格上、常に階級や差別、格差、差異、区別の存在が前提となり、それに対する「反発」や「負い目」として成立する。そうした(人間の)個体間の相互性や同等性に対する理解・尊重・同情・畏怖・懸念・猜疑・危機感などの積み重ねにより、古来より人間社会における普遍的な社会道徳・社会規範として醸成されてきた発想が、いわゆる「黄金律」であるが、平等主義はその「黄金律」が敷衍化・過激化した一形態であるとも言い換えることができる。裏を返せば、人間の間に絶対的・根源的な差異・区別を設けることの困難さ、個体間の能力差の僅少さこそが、平等主義が生じる背景となっていると言える。 階級・差別・格差・差異・区別によって生じる利益・特権、或いはそれらを支えている伝統・慣習・宗教・道徳・規範・規則、更には、それらによって支えられている社会秩序を維持しようとする守旧派と、それに反発する平等主義勢力との対立は、人類の歴史上、様々な場面で見られる普遍的なものであり、近代政治学における、右翼・保守と左翼・革新の対立にも受け継がれている。 国家や社会の多数派が格差・不公平・被差別を感じる状態に陥った場合、新興勢力がその多数派を味方として取り込む(糾合する)べく平等主義的なレトリックを駆使することで、社会改革・革命的事態が発生・進行する。このように全ての国家・社会には、常に(多数派が公平感・平等感を感じられるような)平等主義へと促されていく潜在的圧力がかかり続けている。 古代ギリシャのポリス・アテナイでは、早い時期に王政が打倒され、貴族による支配が続いていたが、重装歩兵として兵役義務を果たす自由市民たちの発言力の高まりや、交易・貨幣経済によって生じた市民間の貧富格差に対する不満などを背景として、紀元前594年の「ソロンの改革」を皮切りに、「クレイステネスの改革」における「デモス」(区)、「オストラシズム」(陶片追放)、「五百人評議会」の確立などを経ながら、徐々に貴族政治から、民主政治へと移行していくことになった。紀元前5世紀になると、ペルシア戦争における一大決戦であった紀元前480年のサラミスの海戦で、三段櫂船の漕手として活躍した下層市民の発言力も高まり、紀元前462年にはエピアルテス
概要
歴史
近代以前
ギリシャ・ローマ
古代ローマにおいても、紀元前509年の王政打倒による共和政への移行後も、貴族(パトリキ)が仕切る元老院による支配が続いていたが、重装歩兵を担う平民(プレブス)の発言力の高まりを受け、
紀元前494年 - 平民(プレブス)の権利保護のための「護民官」の設置
紀元前444年、紀元前444年-紀元前394年、紀元前391年-紀元前367年 - 平民(プレブス)が就任可能な高位である「トリブヌス・ミリトゥム・コンスラリ・ポテスタテ」を、執政官の代替として設置
紀元前367年 - リキニウス・セクスティウス法により、平民(プレブス)枠を設けた上で、「執政官」を復活
紀元前287年 - ホルテンシウス法により、身分平等な「トリブス民会」を最高立法機関として認定
といった具合に、民主化が進展して行くことになった。
また後には、領土の拡大に伴い、属領の外国人の往来、彼らとの交流・混淆が増え、万民法も誕生・発達した。 閉鎖的な選民宗教であるユダヤ教に立脚していた古代イスラエルでは、長年の周辺民族・国家との対立・混淆、忠誠心を欠いた自民族に対する歴代の預言者達による数々の叱責、神殿や戒律に依拠する既得権益層(サドカイ派・ファリサイ派)に対する不満の蓄積、神(ヤハウェ)の至高性・卓越性追求(神は他民族をも救う)の果てに、ついにユダヤ民族の特権性の破棄(新しい契約)を宣言するナザレのイエスが登場することになった。 初期キリスト教の代表的な使徒(伝道者)であったパウロらは、異邦人(他民族)へと布教していくにあたり、ユダヤ教徒(ユダヤ民族)の要件・義務とみなされていた、割礼等の戒律・慣習の遵守を、保守派の反対を説得し大幅に破棄・簡素化させた[2]。これによりキリスト教は異邦人(他民族)への布教が容易になり、周辺各地に広く普及していく一方で、ユダヤ教とは完全に分離・分裂していくことになった。 開祖ムハンマドらの初期のイスラム教共同体(ウンマ)から発展して成立した、最初のイスラム系王朝であるウマイヤ朝では、アラブ人優遇政策を採り、同じイスラム教徒(ムスリム)であっても、非アラブ人はマワーリー(被征服民)としてジズヤ(人頭税)が課される等、差別待遇が成されていた。これがウマイヤ朝が打倒される一因となり、その力を借りて覇権を奪取した続くアッバース朝では、そうした差別は撤廃された。これは「アラブ帝国」としてのウマイヤ朝から、真の「イスラム帝国」であるアッバース朝への脱皮を果たした歴史的事件として、俗に「アッバース革命」と呼ばれる。 古代インドでは、紀元前10世紀頃のアーリヤ人侵入以降、そのバラモン階級が伝統的に祭祀・思想の一切を取り仕切ってきたが、紀元前6世紀頃から、中心地であるガンジス川流域において、非バラモン階級の出家者(沙門)達が、従来のバラモン教的伝統に囚われない自由思想家として登場・活躍するようになり、唯物論も含む様々な思想が説かれるようになった。(参考: 六師外道) その内の1つであった仏教では、開祖であるゴータマ(釈迦)によって、人間は出自ではなくその行い(身口意の「三業」の善し悪し)によって判断されなくてはならないとして、カーストの階級による区別・差別が否定され、徹底した平等主義が説かれ、また実践された[3]。 初期仏教では、僧伽(僧団)に属する出家者(比丘・比丘尼)が涅槃到達・解脱のための修行を行いつつ、在家信徒へ智慧・徳を与え、その見返りとして在家信徒が食物・物品を彼らに提供するという共存関係で成り立っていたが、この関係は在家信徒側に不満・疎外感を蓄積させていく格好となり、やがて衆生救済に励む「菩薩」信仰を派生させ、大乗仏教という仏教改革・革新運動成立の1つの要因・背景となった。
キリスト教
イスラム教
インド(仏教など)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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