平田鐵胤
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 凡例平田銕胤
時代江戸時代後期 - 明治時代前期
生誕寛政11年12月6日1799年12月31日
死没明治13年(1880年10月25日
享年82
改名碧川篤眞 → 平田銕胤
別名内蔵介、大角(通称
伊予国新谷藩出羽国久保田藩
氏族平田氏(伊勢平氏系)
父母実父:碧川衛門八
養父:平田篤胤
兄弟弟:碧川好尚
妻千枝(平田篤胤女)
平田延胤(嫡男)
三木鉄弥
平田胤雄
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平田 銕胤(ひらた かねたね、寛政11年12月6日1799年12月31日) - 明治13年( 1880年10月25日)は、江戸時代末期から明治時代にかけての日本国学者 [1]。「鐵胤」「鉄胤」とも書く。出羽国久保田藩[1]。幼名篤実(あつさね)[2]、のちに篤眞(あつま)、通称は内蔵介(くらのすけ)、号は伊吹舎(いぶきのや)・大角(だいかく)[3]平田篤胤に師事し、その養子となった[1]目次

1 生涯

2 人物・著書

3 親族と系譜

3.1 妻千枝

3.2 系譜


4 墓所

5 脚注

5.1 注釈

5.2 出典


6 参考文献

7 関連項目

8 外部リンク

生涯

伊予国(現、愛媛県)出身[1]。同国新谷藩加藤泰理の家臣碧川衛門八の長子として生まれた。8歳にして手習いを始め、10歳には書を学び素読を習い、15歳で元服、20歳頃には和学を学び、その師の指導により『古今和歌集』に親しみ、やがて本居宣長の存在を読書によって知り国学に関心を抱くようになった。文政3年(1820年)夏、書肆の主人の紹介で『霊能真柱』『古史成文』『古史徴』その他平田篤胤の著作にふれて以後、国学を志した。

文政5年(1822年)5月、江戸に出て平田塾に正式に入門した[2][4][注釈 1]文政7年(1824年1月15日、平田篤胤の養子となり、篤胤の娘千枝(おてう)と結婚し、を銕胤、号を大角と改めて篤胤の後継者となった[2][5]。気吹舎では、有力な後ろ盾をもたない養父篤胤の出版資金の調達や著書販売などの実務を担当した[1]。『玉たすき』『古史成文』『古史徴』などの出版に際しては募金をおこない、大著『古史伝』予約出版にあたっては出費を勧誘したり、板木を売りさばくなどして篤胤を支えた[4]

天保12年(1841年)、篤胤が江戸幕府の忌諱に触れて著述差し止めを受け、羽州久保田帰還を命じられてからは、1,000名を超す門人をよく統率する一方、篤胤の江戸帰還運動に尽力した[1][4]天保14年(1843年)閏9月の篤胤死後も、古道普及のために東奔西走して門人の拡張や復古神道の教義普及に努め、篤胤の遺教を普く宣布した[4]。銕胤は、故篤胤が久保田(現、秋田県秋田市)を出奔したといわれる正月7日、金1歩を毎年江戸より久保田郊外の曹洞宗寺院正洞院(篤胤の菩提寺)にとどけ、養父の供養を怠らなかった[6]。また、その門人をすべて「篤胤没後の門人」としたことは有名で、みずから学者として一家をなそうとはしなかった[1][3] 『気吹舎日記』


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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