平田淳嗣
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「スーパー・ストロング・マシーン、スーパー・ストロング・マシン」はこの項目へ転送されています。ストロング・マシーンを名乗ったプロレスラー全般については「ストロング・マシーン」をご覧ください。

平田 淳嗣
プロフィール
リングネームスーパー・ストロング・マシーン
魔界1号
ストロング・マシーン1号
ブラック・ストロング・マシーン
スーパー・ラブマシーン
サニー・トゥー・リバーズ
平田 淳嗣
平田 淳二
本名平田 淳嗣(旧名:平田 淳二)
ニックネーム心優しき無頼漢
戦慄の殺人魔神
青義軍の名参謀
機械の中の機械
身長183cm
体重115kg
誕生日 (1956-12-20) 1956年12月20日(65歳)
出身地神奈川県平塚市
所属新日本プロレス
スポーツ歴柔道
デビュー1978年8月26日
引退2018年6月19日
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平田 淳嗣(ひらた じゅんじ、1956年12月20日 - )は、日本の元男性プロレスラー。本名:同じ、旧名:平田 淳二(読みは同じ)。神奈川県平塚市出身。元新日本プロレス所属。血液型B型。

デビュー時のリングネームは、当時の本名である平田淳二だったが、その後、本名自体を平田淳嗣と改名したため、リングネームも改名した。そのレスラーとしてのキャリアにおいて、覆面レスラーのストロング・マシーン1号またはスーパー・ストロング・マシーンのリングネームで特に知られる。

派手なテクニックや大技は無いが、大きく頑丈な体躯と長いキャリアを生かした重厚なレスリングを身上としている。若い頃は飛び技なども器用にこなす万能型のレスラーであり、華麗なジョージ高野、過激な前田日明、パワーの平田の三羽烏で期待された。また、フィニッシュ・ホールドの「魔神風車固め」をここ一番という時にのみ使用することで、唯一無二のオリジナル技としての説得力を持たせ続けていた。
来歴

神奈川県立平塚工科高等学校時代から柔道ボディビルで身体を鍛えた。その後高校を中退し、全日本プロレスに入門したが、父親が脳梗塞で倒れたためにデビュー前に退団した[1]渋谷の新聞販売店に住み込みながら新聞配達のアルバイトで生計を立てていたがプロレスラーへの夢は断ちがたく、店長に誘われて1977年10月25日に行われたアントニオ猪木VSチャック・ウェップナーを観戦に行った際に購入したパンフレットに掲載されていた「レスラー募集」の広告を見て、山本小鉄に手紙で入門を直訴する。大田区体育館で行なわれた入門テストに合格し、1978年5月に新日本プロレスに入門[2]。8月26日の長野県飯山大会における藤原喜明戦でデビュー。「長州2世」と呼ばれ、ジョージ高野前田明らと前座で好勝負を展開した。

1982年11月にメキシコ遠征に出発。メキシコではカネックUWA世界ヘビー級王座に2度挑戦した他、エル・ソリタリオドス・カラスともタッグを組んだ[3]1983年カナダカルガリーに転戦し、スチュ・ハートが主宰していたスタンピード・レスリングにて、サニー・トゥー・リバーズ(Sonny Two Rivers)のリングネームでインディアンギミックベビーフェイスとして活躍[4]1983年11月18日にはザ・コブラ(ジョージ高野)から英連邦ミッドヘビー級王座を奪取、1984年3月2日にロン・スターに敗れるまで戴冠した[5]。髪はモヒカン刈りで、リング上ではインディアンのダンスや雄叫びを披露、技もトマホーク・チョップインディアン・デスロックを用いた(平田は、ワフー・マクダニエルをイメージしていたと語っている)[6]。試合内容はジン・キニスキーからも絶賛されたという[4]。海外で活躍する日本人レスラーを紹介する番組にて、マスクド・スーパースターに挑戦するタイトルマッチが取り上げられたこともある(その時のレポーターは、引退して間もなかった女子プロレスラーのタランチェラ)。スタンピード・レスリングではヒロ斎藤バッドニュース・アレンキューバン・アサシンビッグ・ジョン・クインマイク・ショーなどとも対戦し、タッグではブレット・ハートダイナマイト・キッドデイビーボーイ・スミスジェリー・モローミスター・ヒトフィル・ラフルールらのパートナーを務めた[7][8]。また、この当時、マサ斎藤や長州とAWA地区ミネアポリスで接触し、プロレス雑誌で維新軍入りと伝えられたが、帰国命令が出なかったため実現せずに終わる。

1984年8月に坂口征二からの要請により帰国[9]。直前にはキラー・カーンからフリッツ・フォン・エリックが主宰していたWCCWへの参戦をアプローチされていたが、帰国命令により立ち消えになった[9][10]。帰国後はマネージャー将軍KYワカマツ率いる「マシン軍団」の一員として若松に操られる機械という設定の赤覆面レスラー「ストロング・マシーン」(当時としては斬新奇抜なデザインで一気に人気になった)にギミック変更し、8月24日の東京・後楽園ホール大会にて目出し帽を被り、アメフト用のプロテクターを着用して初登場し猪木を挑発した[11]。当時、記者がマシーンに話しかけると「ギギギ…ガガガ…」という機械音が聞こえた、という記事が新聞紙上を飾っている。後年このことを記者がたずねると「屁でもした音だろ」と答えた。9月7日、福岡スポーツセンターのメインでアントニオ猪木とシングルマッチで対戦(7分19秒、ワカマツの乱入により無効試合。シリーズ当初は猪木VSアブドーラ・ザ・ブッチャーの予定であったが急遽変更された)[12]。これがストロング・マシーンでのデビュー戦となる。入場時には目のデザインこそ違うが同じ赤覆面の2号も現れ猪木を撹乱した。デビュー戦は多くの謎を残したまま終わった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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