平田国学
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 凡例平田 篤胤
『國文学名家肖像集』の平田篤胤
時代江戸時代後期
生誕安永5年8月24日1776年10月6日
死没天保14年9月11日1843年11月2日
享年69(満68歳没)
改名大和田胤行 → 平田篤胤
別名大壑
大角
玄琢
気吹乃舎
真菅乃屋
神号神霊能真柱大人
出羽国久保田藩備中松山藩 → 久保田藩
氏族房総平氏系大和田氏 → 伊勢平氏系平田氏
父母実父:大和田祚胤
養父:平田篤隠
兄弟雅胤
正胤
胤行
実胤
胤秀
妻織瀬(石橋常房の娘)
織瀬(山崎篤利の養女)
子実子:常太郎、千枝、又五郎
養子:鐵胤
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平田 篤胤(ひらた あつたね、安永5年8月24日1776年10月6日〉 - 天保14年9月11日1843年11月2日〉)は、江戸時代後期の国学者神道家思想家医者

出羽国久保田藩(現在の秋田県秋田市)出身。成人後、備中松山藩士の兵学者平田篤穏の養子となる。

幼名を正吉、通称を半兵衛。元服してからは胤行、享和年間以降は篤胤と称した。は気吹舎(いぶきのや)、家號を真菅乃屋(ますげのや)。大角(だいかく)または大壑(だいがく)とも号した。医者としては玄琢(のちに玄瑞)を使う。死後、神霊能真柱大人(かむたまのみはしらのうし)の名を白川家より贈られている。

復古神道古道学)の大成者であり、大国隆正によって荷田春満賀茂真淵本居宣長とともに国学の四大人(しうし)の中の一人として位置付けられている[1]
生涯
秋田を出奔

久保田藩の大番組頭であった大和田清兵衛祚胤(としたね)の四男として秋田郡久保田城下の中谷地町(現在の秋田市中通4丁目)に生まれた[2][3]。生家の大和田家は、朱子学を奉じ、国学神道とは無縁であった[4]

故郷を捨て江戸に出奔する20歳のときまでの事跡ははっきりしないが、現存する史料から不幸な幼少期が示されている。諸書には久保田藩の医師侍講でもあった中山菁莪の門下だったとあるものの、秋田時代の篤胤の経歴はほとんどすべて養子の平田銕胤の記述をもとにしている[2]。ただし、自著『仙境異聞』(1822年)において「己は何ちふ因縁の生れなるらむ」と嘆いており、天保13年(1842年11月2日の銕胤にあてた手紙には、「生れ落より父母の手には育てられず、二十になる正月の八日に、かねて五百文こしらひ置たる銭を以て書置をして欠落し江戸へ出たが」とあり、貧しさのなかで捨て子同然の少年時代を送ったと考察されてもいる[2][注釈 1]。また、継母との折り合いがわるかったという見解もある[5]

20歳になったばかりの寛政7年(1795年1月8日に脱藩・出奔し、遺書して国許を去った[3]。正月八日に家を出るものは再び故郷に帰らない、という言い伝えにちなんだという[3]。江戸に出た篤胤は、大八車を引いたり、5代目市川團十郎の飯炊きや三助火消しなど苦学しながら当時の最新の学問、とくに西洋医学地理学天文学を学びつつ、旗本某氏の武家奉公人となった[2][3][4][6]

寛政12年(1800年)、篤胤25歳のとき、勤め先で江戸在住の備中松山藩士で山鹿流兵学者であった平田藤兵衛篤穏(あつやす)の目にとまり、才覚を認められて、その養子となった[2][4]。養子となったいきさつには様々な伝説があるが、詳細は不明である。このころ、駿河沼津藩士石橋常房の娘・織瀬と出会う[6]。当時織瀬は旗本屋敷の奥勤めをしており、篤胤は同家のしがない奉公人であったが、やがて2人は深く愛し合うようになり、享和元年(1801年)篤胤26歳のとき、結婚した[6]
国学との出会い

上述のように、篤胤が江戸に出てきたのは必ずしも国学を学ぶためではなかった[6]。その関心は広く、蘭学吉田長淑に学び、解剖にも立ち合っている[4]。他方、迫り来る対露危機に関しては、徹底した情報収集を行っている[4]

篤胤が本居宣長の名前と著作を知ったのは、宣長没後2年経った享和3年(1803年)のことであった[7]。妻の織瀬が求めてきた宣長の本を読んで国学に目覚め、のなかで宣長より入門を許可されたとしており、「宣長没後の門人」を自称した[2][7]。これは時代の流行語となった[2]『夢中対面の図』(渡辺清画)

文化2年(1805年)、篤胤は宣長の跡を継いだ長男の本居春庭に入門しており、夢中対面の話は春庭あて書簡に書かれている[注釈 2]。篤胤は『直日霊』や『初山踏』『玉勝間』『古事記伝』など宣長の著作を読み、独学で本居派国学を学んでいった。篤胤の買い求めた『古事記伝』には、宣長門下服部中庸(なかつね)が著したダイヤグラム『三大考』が付録として付いていた[8]。これは、10枚の図で「天・地・泉」の成り立ちを明示したものであり、のちに『霊能真柱』の著述におおいに活用されることになった[8][注釈 3]

このころ、芝蘭堂山村才助西洋東洋の地理書を渉猟した本格的な総合的地理書『訂正増訳采覧異言』(1802年成立)を著し、長崎蘭学者志筑忠雄による『暦象新書』(1798年-1802年)ではニコラウス・コペルニクス地動説アイザック・ニュートン万有引力が紹介されている[4][7][注釈 4]


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