平瀬亀之輔
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平瀬本源氏物語(ひらせぼんげんじものがたり)は、源氏物語の写本の一つ。「平瀬家本(源氏物語)」とよばれることもある。
概要

本写本はかつて幕末から明治にかけて活躍した大阪豪商平瀬露香の所有であり(ただし露香の代に平瀬家に入ったのかそれ以前にすでに平瀬家に入っていたのかは不明)、同人の死後も平瀬家に伝えられた。こうして平瀬家のもとにあった時期に山脇毅によって河内本の本文を持つ写本として初めて公表された写本であり、このときに「平瀬本」と呼ばれるようになってこの名で広く紹介され、この名で河内本系統の対校本文のひとつとして校異源氏物語及び源氏物語大成に採用されたために「平瀬本」の名が定着した。そのため、その後平瀬家の所蔵を離れた現在でも「平瀬本」の名前で呼ばれている。重要文化財(旧国宝)に指定されている。
写本の状況

本写本全54帖のうち40帖が鎌倉時代の書写と見られ、伏見天皇他複数人の筆写とされる取り合わせ本である。古写のうち4帖(澪標乙女浮舟夢浮橋)は青表紙本、5帖(関屋朝顔紅梅総角早蕨)は別本。13帖(夕顔若紫絵合松風薄雲初音行幸梅枝鈴虫椎本東屋蜻蛉)が勧修寺尚顕による室町時代の補写とみられ、本文は青表紙本である。

なお、この写本は形式的には54帖の「揃い本」であるが、「竹河」の外題を持つ巻には『狭衣物語』第二巻の本文が混入しており源氏物語の竹河巻の本文は本写本のどこにも存在しない[1]。したがって、本写本では源氏物語としての本文が存するのは竹河巻を除く53帖分だけであり、このため「平瀬本は53帖からなる写本である」とされることもある[2]

また、この写本には、おそらくは古筆切にするために切り取られたとみられるところが『柏木』巻の巻末など数カ所存在する[3] 。本写本にはいくつかの巻に不自然な落丁が存在するが、これについても古筆切にするために切り取られた跡をきれいに整えた跡であろうとする見方が存在する[4]。また切り取られたと思われる場所には山岸徳平の記した付箋が挟み込まれている。
平瀬家と平瀬露香

かつて本写本の所有者であった平瀬家は、赤松則村(円心)の子孫との言い伝えを持ち、大阪で両替商「千種屋」(千草屋とも[5])を営んでいた豪商で、最盛期には住友鴻池に次ぐほどの勢力を誇ったとされる。しかし、住友や鴻池が幕末から明治時代にかけて後に財閥と呼ばれるような近代的な経営体に変化していったのと比べると平瀬家は露香の時代、旧態依然とした体制のままにとどまり明治以後に始めた事業はほとんどが成果を上げられずに衰退する一方であり、明治時代後期には平瀬家の別宅や所蔵品の売り立てを何度も行うまでの窮乏状態になっている[6]

平瀬家第7代当主の平瀬露香こと平瀬亀之輔(1839年(天保10年) - 1908年(明治41年))は江戸時代末期から明治時代にかけての人物である。本名亀之助または亀之輔。春愛。号は露香、同学斎、桜蔭寺などと称していた。俳号は蘆の丸屋貞瑛。第三十二国立銀行(のちの浪速銀行[7])を設立し、日本火災保険社長などを経て、府立大阪博物場長も務めた実業家である[5]

平瀬露香はのちに平瀬家第6代当主となった平瀬宗十郎(1818年(文政元年) - 1866年(慶応2年)、春温、士陽)と千種屋の奉公人の娘の子として生まれたものの、宗十郎は平瀬家第5代当主平瀬水(1806年(文化3年) - 1835年(天保6年))の六男であり当時の宗十郎は当主となることなど考えられない部屋住みの身であったため父母は結婚を認められず[8]実母は実家に帰されて露香は分家の子として育てられ、兄が早世したために宗十郎が平瀬家の第6代当主となった後も正妻(露香出生後に結婚した相手であって露香の実母ではない)との間に男子が生まれず宗十郎の男子が露香独りであったために結果的に露香は10代半ばで本家に迎えられて、結局平瀬家第7代当主となった[9]

そのようないきさつから露香は若いときから本業(=商売)に熱心ではなく道楽に走った生活をしていたともいわれており、まだ父親が存命中であった17歳のころには「放蕩が過ぎる」ことを理由に京都の天竜寺に謹慎のために預けられたこともある。さらに父親が死去して家督を相続した後も支配人から理由を付けられて明治元年から二年にかけて一度隠居させられている。このような複雑な事情で露香は第7代の当主となったが、当主となった後もさまざまな事業の運営のほとんどは前代からの従業員たちに任せきりであり、これは同人が平瀬家の当主となるまでの複雑な事情に加え、同人の道楽にふけっていた素行を不安視する人物が平瀬家の中にも多かったためであると見られている[10]。そのため同人は1878年に第三十二国立銀行を設立し、1892年には日本火災保険を設立して社長をつとめるなど著名な実業家ではあった一方で、本業よりもむしろ俳諧和歌書画茶道能楽など諸芸に通じており、1875年に開業した物品展示場の府立大阪博物場(現・マイドームおおさか[11]の場長をつとめるなどさまざまな文化的活動とそれに関連した文物の収集で知られた人物であり、「最後の粋人」などとも呼ばれていた[12]。また遊里遊びも盛んで、花柳界にその名を馳せた[13]

平瀬家は7代当主・亀之助(露香)没後、養嗣子の三七雄(三十二銀行取締役・富子助次郎長男)が8代、その妻の睦(平瀬家分家筋養子で日本銀行大阪支店長・平瀬市五郎長女)が9代を継いだ[14][15][16][17]
写本の伝来

本写本の平瀬家に入るまでの伝来は不明であり、露香の代に平瀬家に入ったのかどうかも不明である。これについて古典籍や古活字版の研究で知られる書誌学者、国文学者の川瀬一馬は、江戸時代後期の考証学者である狩谷?斎安永4年12月1日1775年12月23日) - 天保6年閏7月4日1835年8月27日)が1816年(文化13年)に関西方面を旅した際に素性も事績も不明な「退六」なる人物が所蔵していた源氏物語の写本を調査して『西遊日記』に記録しているが、この写本の各巻の鑑定筆者が現在の平瀬本に見られるものと同じであることから、このとき狩谷が見た源氏物語の写本は現在の平瀬本ではないかとしている[18]

本写本は平瀬家の所有となった後、平瀬露香の没後も同家に伝えられており、山脇の調査時(1919年(大正8年)ころ)は露香の養子である平瀬家第8代当主平瀬三七雄(1876年(明治9年) -1927年(昭和2年)、春齢・露秀とも称している。)の所有とされており[19]1930年(昭和5年)ころの池田亀鑑の調査時には平瀬三七雄の夫人(平瀬家第9代当主)の所蔵とされている。平瀬家ではこれを非常に大切にし、「指でめくることを禁じられており、竹べらでめくらなければならなかった。」とされている[20]。このために用意された専用の竹べらは本写本が文化庁所蔵となった現在も「アケルヘラ」と書かれた紙に包まれた形で本写本と共に保管されている[21]

良質な源氏物語の写本を求めて明治時代後期から始まった写本調査の中で、良質な河内本系統の写本はすでに失われたと考えられていた中で1919年(大正8年)4月に山脇毅によって河内本の写本として初めて発見され1921年(大正10年)になって論文によって広く紹介された[22]


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