平泉
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この項目では、主に日本の岩手県にある世界遺産について説明しています。

この地域を管轄する地方自治体およびその地理や歴史などについては「平泉町」をご覧ください。

その他の平泉については「平泉 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び
考古学的遺跡群―
日本

毛越寺浄土庭園
英名Hiraizumi - Temples, Gardens and Archaeological Sites Representing the Buddhist Pure Land
仏名Hiraizumi - Temples, jardins et sites archeologiques representant la Terre Pure bouddhiste
面積176 ha(緩衝地域 6,008 ha)
登録区分文化遺産
登録基準(2), (6)
登録年2011年
公式サイト世界遺産センター(英語)
使用方法表示

平泉(ひらいずみ)は、日本東北地方岩手県南西部(古代陸奥国磐井郡)にある古くからの地名であり、現在の岩手県西磐井郡平泉町の中心部にあたる[1]

この地域一帯には平安時代末期、奥州藤原氏が栄えた時代の寺院や遺跡群が多く残り、そのうち5件が「平泉―仏国土浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」の名で、2011年6月26日(現地時間:6月25日)にユネスコ世界遺産リストに登録された[2]日本の世界遺産の中では12番目に登録された文化遺産であり[注釈 1]、東北地方では初の世界文化遺産となった。

奥州の入り口は白河関福島県北緯37度)、北限は津軽半島外ヶ浜青森県。北緯41度)であるが、この2地点のちょうど中間に位置するのが平泉(北緯39度)である。北から旅しても南から旅しても平泉あたりで行程上の中日となり、奥州全体に仏国土加護を行き渡らせるに相応しい立地でもあった。
歴史的背景奥州藤原氏三代像(毛越寺所蔵)「平泉町#歴史」および「奥州藤原氏」も参照

世界遺産と関わりのある範囲で歴史的背景を概説する。

平泉は北を衣川、東を北上川、南を磐井川に囲まれた地域である。この地を11世紀末から12世紀にかけて約90年間拠点としたのが、藤原清衡に始まる奥州藤原氏である。「平泉」という地名を史料的に確認できる最古の例は『吾妻鏡』の文治5年1189年)の項目で、時期的に重なっている[3]。その語源は、泉が豊富だったという地形的要因に基づく説がある一方で[4]、仏教的な平和希求の理念に基づくという説もある[5]

清衡は康和年間に平泉に本拠地を移し、政庁となる「平泉館」(ひらいずみのたち、現 柳之御所遺跡)を建造した。さらに中尊寺を構成する大伽藍群を建立していったが、この時点の平泉にはその2つの建造物群しかなく、都市機能は衣川を挟んだ対岸の地区にあった[注釈 2][6]

中尊寺金色堂建立の頃を境に建造物は南へと伸長していくようになり、奥州藤原氏2代目当主の基衡の時代には、平泉館での新しい中心地となる大型建物の新築、毛越寺の建立やそれに合わせた東西大路の整備などが行われ、都市機能が着実に整備されていった[7]。3代目の秀衡の時代には、平泉館の大改築、無量光院の建立やそれにともなう周囲での新市街の形成など、平泉全体の都市景観が大きく様変わりした[8]。初代から3代のそうした変化を、順に「山平泉」「里平泉」「都市平泉」と位置付ける者もいる[9]

奥州藤原氏は4代目の泰衡の時に源頼朝によって滅ぼされ、平泉に込められた独自の仏教理念が引き継がれることはなかったが、平泉の建造物群については保護された[10]。それに関連し、頼朝は平泉陥落直後(1189年)に中尊寺や毛越寺の僧侶に対し、報告書の作成と提出を命じた。それが『吾妻鏡』文治5年9月17日条に収録された「寺塔已下注文」(じとういかちゅうもん)で、当時の平泉を窺い知る上での一級史料と評価されている[11]

後の時代の火災などによって失われた建造物群も少なくないが、昭和から平成にかけての発掘調査などによって、寺院跡などが発見・復元されるようになっている。
浄土思想詳細は「浄土教」および「浄土式庭園」を参照

浄土思想は、阿弥陀如来を信仰し、西方極楽浄土に往生することを目指す思想である。日本では特に平安末期の末法思想の流行や、それを裏付けるかのように相次いだ戦乱と相俟って、人々の間に浸透していった。ことに平安末期の有力者たちへの浸透は、多数の来迎図の作成や阿弥陀堂の建立、浄土式庭園の作庭などに結びついた。浄土式庭園は、建造物群、池、橋などが織りなす景観を浄土と関連付け、その存在を視覚的・体感的に認識させようとする営為である[12]

奥州藤原氏の初代清衡も仏教に深く傾倒し、相次ぐ戦乱の犠牲者たちが敵味方の区分なく浄土に往生できるように、中尊寺を建立した[13]。その中で彼が最初に建立したのは多宝堂(最初院)だが、そこで採用した様式は、京都などで一般的だった大日如来に見立てる密教系の様式ではなく、東アジアで主流となっていた様式、すなわち法華経に題材を採った「釈迦多宝二仏並座」の様式であった。この点は平泉の仏教が備えていた自立性と国際性を示すものとされる[14]。また、「釈迦多宝二仏並座」の多宝堂は宇宙の中心を象徴するものであり、彼が幹線道路である「奥大道」沿いに笠卒塔婆や伽藍を整備しようとしたという伝承とともに、清衡が東北日本にある種の「仏教王国」を築こうとした意図の表れとも指摘されている[15]

この時点での浄土思想は、平泉における仏教思想の中枢を占めてはいなかったが、3代秀衡の無量光院建立に至って、浄土教が中心的地位を占めるようになった[16]。その過程で浄土思想と深く結びつく建造物や庭園群が建立されるとともに、平泉は仏教色の強い大都市として整備されていった。世界遺産の主要部分はそれらの寺院(跡)の数々によって構成されており、かつて平泉に展開された仏教的な平等主義と平和主義の理想を今に伝えている。
世界遺産登録の経緯
平泉の文化遺産

平泉は「石見銀山遺跡とその文化的景観」や「紀伊山地の霊場と参詣道」とともに、2001年世界遺産の暫定リストに掲載された。当初の登録名は「平泉の文化遺産」で、京都に影響されつつも、それと比肩しうる独自性を持つ優れた地方文化を発展させていったことや[17]、かつての重要な政治拠点でありながら、奥州藤原氏の滅亡とともにその重要性を失い、開発にさらされることなく当時の姿を保存している点が評価された[18]
平泉 - 浄土思想を基調とする文化的景観

2006年7月文化審議会で世界遺産に推薦されることが決定し、登録名が「平泉 - 浄土思想に関連する文化的景観」と変更された。この名称は同年9月の文化庁による再検討の結果、「平泉 - 浄土思想を基調とする文化的景観」と微調整され、2006年12月26日に最初の推薦書がパリ世界遺産センターに提出された[19]。このときの構成資産は中尊寺毛越寺無量光院跡金鶏山柳之御所遺跡達谷窟(以上平泉町)、白鳥舘遺跡長者ヶ原廃寺跡(以上奥州市)、骨寺村荘園遺跡と農村景観一関市)の9件であり、登録名にもあるように、周辺の自然環境と寺院群によって浄土が再現された文化的景観としての申請であった。


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