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平泉寺白山神社
所在地福井県勝山市平泉寺町平泉寺56-63
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度2分38.1秒 東経136度32分31.6秒 / 北緯36.043917度 東経136.542111度 / 36.043917; 136.542111 (平泉寺白山神社)
平泉寺白山神社(へいせんじはくさんじんじゃ)は、福井県勝山市平泉寺町平泉寺[注 1]に鎮座する神社。白山信仰の越前国側の拠点[1]として、仏教僧の泰澄により717年に開山されたと伝えられ、後に比叡山延暦寺(天台宗総本山)の末寺となって栄え、明治時代の神仏分離までは仏教寺院[2]霊応山平泉寺だった。その歴史や出土品などは白山平泉寺歴史探遊館まほろばで展示紹介されている。 本殿に伊奘冊尊、本殿右の別山社に天忍穂耳尊、左の越南知社(おおなむちしゃ)に大己貴尊(大国主命)を祀る。 養老元年(717年)、泰澄によって開かれたという。平安時代以降比叡山延暦寺の勢力下に入り、霊応山平泉寺として知られるようになり、豊原寺と双璧をなした。白山信仰の越前側の禅定道の拠点(越前馬場・ばんば)として山伏・僧兵が集まるところとなる。 応徳元年(1084年)には延暦寺の末寺となる。しかし、久安3年(1147年)の時点では園城寺の末寺となっていた。そのため、この年に延暦寺は再び平泉寺を末寺とするために鳥羽法皇に訴えて認められ、平泉寺は再び延暦寺の末寺となった[3]。 延暦寺の末寺であった承安2年(1172年)7月に大講堂が再建され、延暦寺の学僧永弁がその落慶法要の導師を務めている。大講堂は白山神社の拝殿前にあり、七間四面の大きさで、その内陣には釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来、観音菩薩、不動明王、毘沙門天の仏像6体が祀られていた[4]。 源平合戦時の行動として、『平家物語』には、寿永2年(1183年)4月に行われた平家と木曾義仲方との火打城の戦いで、平泉寺の長吏斎明が木曾義仲を裏切り平家側についたことが書かれている。斎明はその後の倶利伽羅峠の戦いで捕らえられ処刑されているが、一方で義仲はその戦いの後に藤島七郷を平泉寺に寄進している。この頃にはもう既に有力な僧兵集団がいたことが知られる。 鎌倉時代の初めには、源頼朝に追われた源義経主従が、山伏に姿を変えて奥州藤原氏のもとへ落ち延びる途中で平泉寺に立ち寄ったといわれ、義経や武蔵坊弁慶に関する伝説も残っている[5]。 平泉寺は南北朝時代になると南朝の後醍醐天皇の味方し、越前は南朝にとって非常に有力な地域であった。しかし、北朝の斯波高経によって藤島荘を安堵されると北朝に寝返り、藤島城などに立て籠もったので南朝軍と合戦となった。そこで新田義貞が延元3年/建武5年(1338年)閏7月に藤島城攻めの援軍に向かっていたところを襲撃され、燈明寺畷で戦死した。
祭神
歴史
創建参道寛政年間建立の本殿
中世