平泉寺白山神社
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「平泉寺」はこの項目へ転送されています。愛知県阿久比町の平泉寺については「平泉寺 (愛知県阿久比町)」をご覧ください。

平泉寺白山神社

所在地福井県勝山市平泉寺町平泉寺56-63
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度2分38.1秒 東経136度32分31.6秒 / 北緯36.043917度 東経136.542111度 / 36.043917; 136.542111 (平泉寺白山神社)座標: 北緯36度2分38.1秒 東経136度32分31.6秒 / 北緯36.043917度 東経136.542111度 / 36.043917; 136.542111 (平泉寺白山神社)
主祭神伊奘冊尊
社格等旧県社
創建伝養老元年(717年)
本殿の様式入母屋造榑葺
別名白山神社
例祭4月20日
地図.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}平泉寺白山神社
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平泉寺白山神社(へいせんじはくさんじんじゃ)は、福井県勝山市平泉寺町平泉寺[注 1]に鎮座する神社白山信仰越前国側の拠点[1]として、仏教泰澄により717年開山されたと伝えられ、後に比叡山延暦寺天台宗総本山)の末寺となって栄え、明治時代神仏分離までは仏教寺院[2]霊応山平泉寺だった。その歴史や出土品などは白山平泉寺歴史探遊館まほろばで展示紹介されている。
祭神

本殿に伊奘冊尊、本殿右の別山社に天忍穂耳尊、左の越南知社(おおなむちしゃ)に大己貴尊(大国主命)を祀る。
歴史
創建参道寛政年間建立の本殿

養老元年(717年)、泰澄によって開かれたという。平安時代以降比叡山延暦寺の勢力下に入り、霊応山平泉寺として知られるようになり、豊原寺と双璧をなした。白山信仰の越前側の禅定道の拠点(越前馬場・ばんば)として山伏僧兵が集まるところとなる。

応徳元年(1084年)には延暦寺の末寺となる。しかし、久安3年(1147年)の時点では園城寺の末寺となっていた。そのため、この年に延暦寺は再び平泉寺を末寺とするために鳥羽法皇に訴えて認められ、平泉寺は再び延暦寺の末寺となった[3]

延暦寺の末寺であった承安2年(1172年)7月に大講堂が再建され、延暦寺の学僧永弁がその落慶法要導師を務めている。大講堂は白山神社の拝殿前にあり、七間四面の大きさで、その内陣には釈迦如来阿弥陀如来薬師如来観音菩薩不動明王毘沙門天仏像6体が祀られていた[4]

源平合戦時の行動として、『平家物語』には、寿永2年(1183年)4月に行われた平家木曾義仲方との火打城の戦いで、平泉寺の長吏斎明が木曾義仲を裏切り平家側についたことが書かれている。斎明はその後の倶利伽羅峠の戦いで捕らえられ処刑されているが、一方で義仲はその戦いの後に藤島七郷を平泉寺に寄進している。この頃にはもう既に有力な僧兵集団がいたことが知られる。
中世

鎌倉時代の初めには、源頼朝に追われた源義経主従が、山伏に姿を変えて奥州藤原氏のもとへ落ち延びる途中で平泉寺に立ち寄ったといわれ、義経や武蔵坊弁慶に関する伝説も残っている[5]

平泉寺は南北朝時代になると南朝後醍醐天皇の味方し、越前は南朝にとって非常に有力な地域であった。しかし、北朝斯波高経によって藤島荘を安堵されると北朝に寝返り、藤島城などに立て籠もったので南朝軍と合戦となった。そこで新田義貞延元3年/建武5年(1338年)閏7月に藤島城攻めの援軍に向かっていたところを襲撃され、燈明寺畷で戦死した。

以後、室町時代に入ると、越前守護斯波氏の保護を受け、ますます勢いは盛んとなっていったが、永享12年(1440年)8月に失火によって全山が炎上する事態となった。しかし、10月4日には室町幕府から復興資金として北陸道七か国から棟別銭を徴収することを認められ、この時以降に石垣を多用するようになった。

こうして室町時代後半の最盛期には砦や堀を備え、全山石垣に囲まれた要害へと変貌し、東西1.2キロメートル、南北1キロメートルもの範囲に、南谷3600坊、北谷2400坊、48社、36堂、6000坊の院坊を備え、僧兵8000人を抱える巨大な宗教都市を形成した[5]。特に、泰澄が住していたゆかりの地であり[4]、清僧が住する北谷と違い、妻帯僧が住する南谷は直線的な石畳道路を始めとして計画的に開発された区画で構成されている。また、寺だけではなく街並みがあった証拠として徳市、安ヶ市、鬼ヶ市という地名が残っている。
戦国時代

天文12年(1543年)、長年にわたって加賀馬場・白山比盗_社が持っていた白山山頂の管理権や入山料の徴収などの利権を越前馬場・平泉寺が奪おうとし、これ以降ずっと揉め続けることとなる。

戦国時代には越前の国主である朝倉氏と肩を並べるほどの一大勢力となっていた平泉寺は、「日本国一番の法師大名」といわれた寺領8000を誇る飛鳥井宝光院と大聖院が寺内を統括し、その下に寺領3000石の波多野玉泉坊、小河聞浄坊、佐藤福寿坊、三段崎宝蔵坊、中村増智坊などの有力な坊舎が軒を連ねた。また僧兵の出自も朝倉氏の家臣団一族から入室していることもあり、朝倉氏とは極めて近しい関係であり続けた。

そのため、朝倉義景が北近江の大名浅井長政の援軍に赴く際には平泉寺から玉泉坊や宝光院なども兵を出している。しかし、天正元年(1573年)8月には小谷城の西にある丁野城を守っていた玉泉坊は織田信長の軍勢に攻められ、降伏している。

その後、越前は朝倉義景が従兄弟の朝倉景鏡に裏切られて自害した結果(一乗谷の戦い)、織田氏の領国となり、元朝倉家臣の桂田長俊(前波吉継)が統治を行った。その間である、玉泉坊は平泉寺を統括する宝光院と大聖院を出し抜いて、秘蔵の茶道具である青磁筒を信長に献上して近づき、信長から一山総務の朱印状を入手し、平泉寺全山を手中に収めた。クーデターである。


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