平沼
町丁
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度27分39秒 東経139度37分08秒 / 北緯35.460792度 東経139.618914度 / 35.460792; 139.618914
国 日本
都道府県 神奈川
市町村 横浜市
行政区西区
人口情報(2023年(令和5年)9月30日現在[1])
人口8,477 人
世帯数5,522 世帯
面積([2])
0.299 km²
人口密度28351.17 人/km²
設置日1966年(昭和41年)5月1日
郵便番号220-0023[3]
市外局番045(横浜MA)[4]
ナンバープレート横浜
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平沼町
町丁
国 日本
都道府県 神奈川県
市町村 横浜市
区西区
町名制定1889年(明治22年)4月1日
町名廃止1966年(昭和41年)5月1日
平沼(ひらぬま)は、横浜市西区の町名。現行行政地名は平沼一丁目および平沼二丁目で、主として商店街・住宅地になっている。住居表示は実施済み区域[5]。この地域を開発した江戸時代の豪商、平沼家の名に因む。
歴史江戸時代の本沼橋(現:元平沼橋)付近。右端は移転前の水天宮平沼神社。(歌川貞秀「横浜名所一覧」より、1860年頃)
この周辺は古くは袖ヶ浦と呼ばれた入江が、現:保土ケ谷区東端部まで湾入していた。この入江は景勝地として知られたが、帷子川河口に位置していたため土砂が堆積し、遠浅の海となっていた。このため、18世紀初頭に湾奥部から埋め立てと新田開発が始まった。19世紀の天保年間になると、程ヶ谷宿の豪商であった平沼家と岡野家が大規模な埋め立てを行い(5代目平沼九兵衛が1839年開始)、それぞれ平沼新田とその北隣の岡野新田(現:西区岡野)を造成した。これにより平沼橋駅付近までが陸地になり、さらに幕末には横浜開港に伴い、当時の海岸沿い(現:新横浜通り西側)に「横浜道」が設けられ、東海道と横浜港が結ばれた。1874年の海図。沼に「平沼」の表示がある。
明治に入ると高島嘉右衛門によって袖ヶ浦の入口(現:横浜駅付近、高島)が鉄道建設のために埋め立てられた。残りの水域は沼となり、これも通称「平沼」と呼ばれた。その内で平沼新田の地先(現:平沼一丁目東部)もまもなく平沼家によって埋め立てられ、さらに平沼新田には東海道本線が敷設された(一時は「平沼駅」も置かれた)。
「平沼」の残り(現:北幸、南幸、鶴屋町)も大正年間に埋め立てが完了した。昭和に入ると住宅地・商店街となった。
行政区画
平沼新田は武蔵国久良岐郡の、岡野新田は橘樹郡のそれぞれ新田村であった。
1873年(明治6年)- 平沼新田のうち、横浜道沿いの町屋が形成されていた箇所に平沼町が起立する。大区小区制により神奈川県第1大区3小区に属した。
1878年(明治11年)- 郡区町村編制法により以前の新田村が復活し、久良岐郡平沼新田、橘樹郡岡野新田に戻るが、平沼町は横浜区に編入された。