平治の乱
[Wikipedia|▼Menu]

平治の乱

平治物語絵巻』三条殿焼討
ボストン美術館所蔵)
戦争:
年月日:平治元年12月9日1160年1月19日) - 永暦元年3月11日1160年4月19日
場所:平安京
結果:藤原経宗・惟方らの二条親政派勝利→二条親政派失脚・後白河院政復活→二条親政派と後白河院政派の並立
交戦勢力
12月9日
信西
12月26日
二条親政派
2月20日
後白河上皇
藤原忠通平清盛12月9日
藤原信頼、二条親政派
12月26日
藤原信頼
2月20日
藤原惟方藤原経宗(二条親政派)
指導者・指揮官
12月9日
大江家仲、平康忠ら北面武士

12月26日

平清盛

平重盛

平経盛



2月20日
平清盛郎党忠景・為長12月9日
藤原信頼源義朝源光保源季実源重成

12月26日
藤原信頼[注釈 1]

源義朝

源季実

源重成

源光保(光保は戦闘中に離反)

2月20日
藤原惟方・藤原経宗(捕縛対象者)

戦力
12月9日
北面武士 不明


12月26日
天皇親政派3000騎以上
(平重盛1000騎、平頼盛1000騎、平経盛1000騎、六波羅残存軍 不明)
(学習院本『平治物語[注釈 2])

2月20日
惟方・経宗捕縛の武士 不明12月9日
三条殿襲撃軍 500騎
(学習院本『平治物語』)

12月26日
藤原信頼軍 約800騎
(藤原信頼300騎、源義朝200騎弱、源光保300騎)
(学習院本『平治物語』)



2月20日
藤原惟方・藤原経宗 0
損害
信西自害藤原信頼処刑・
源義朝敗走後死亡、他信頼に与力した武将自害または処刑
藤原経宗、藤原惟方ら配流
.mw-parser-output .hlist ul,.mw-parser-output .hlist ol{padding-left:0}.mw-parser-output .hlist li,.mw-parser-output .hlist dd,.mw-parser-output .hlist dt{margin-right:0;display:inline-block;white-space:nowrap}.mw-parser-output .hlist dt:after,.mw-parser-output .hlist dd:after,.mw-parser-output .hlist li:after{white-space:normal}.mw-parser-output .hlist li:after,.mw-parser-output .hlist dd:after{content:" ・\a0 ";font-weight:bold}.mw-parser-output .hlist dt:after{content:": "}.mw-parser-output .hlist-pipe dd:after,.mw-parser-output .hlist-pipe li:after{content:" |\a0 ";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist-hyphen dd:after,.mw-parser-output .hlist-hyphen li:after{content:" -\a0 ";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist-comma dd:after,.mw-parser-output .hlist-comma li:after{content:"、";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist-slash dd:after,.mw-parser-output .hlist-slash li:after{content:" /\a0 ";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist dd:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dt:last-child:after,.mw-parser-output .hlist li:last-child:after{content:none}.mw-parser-output .hlist dd dd:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dd dt:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dd li:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dt dd:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dt dt:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dt li:first-child:before,.mw-parser-output .hlist li dd:first-child:before,.mw-parser-output .hlist li dt:first-child:before,.mw-parser-output .hlist li li:first-child:before{content:" (";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist dd dd:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dd dt:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dd li:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dt dd:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dt dt:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dt li:last-child:after,.mw-parser-output .hlist li dd:last-child:after,.mw-parser-output .hlist li dt:last-child:after,.mw-parser-output .hlist li li:last-child:after{content:")\a0 ";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist ol{counter-reset:listitem}.mw-parser-output .hlist ol>li{counter-increment:listitem}.mw-parser-output .hlist ol>li:before{content:" "counter(listitem)" ";white-space:nowrap}.mw-parser-output .hlist dd ol>li:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dt ol>li:first-child:before,.mw-parser-output .hlist li ol>li:first-child:before{content:" ("counter(listitem)" "}.mw-parser-output .navbar{display:inline;font-size:75%;font-weight:normal}.mw-parser-output .navbar-collapse{float:left;text-align:left}.mw-parser-output .navbar-boxtext{word-spacing:0}.mw-parser-output .navbar ul{display:inline-block;white-space:nowrap;line-height:inherit}.mw-parser-output .navbar-brackets::before{margin-right:-0.125em;content:"[ "}.mw-parser-output .navbar-brackets::after{margin-left:-0.125em;content:" ]"}.mw-parser-output .navbar li{word-spacing:-0.125em}.mw-parser-output .navbar-mini abbr{font-variant:small-caps;border-bottom:none;text-decoration:none;cursor:inherit}.mw-parser-output .navbar-ct-full{font-size:114%;margin:0 7em}.mw-parser-output .navbar-ct-mini{font-size:114%;margin:0 4em}.mw-parser-output .infobox .navbar{font-size:88%}.mw-parser-output .navbox .navbar{display:block;font-size:88%}.mw-parser-output .navbox-title .navbar{float:left;text-align:left;margin-right:0.5em}

表示

平治の乱(へいじのらん)は、平安時代末期の平治元年12月9日1160年1月19日)、院近臣らの対立により発生した政変である。

文中の( )の年はユリウス暦、月日は西暦部分を除き全て和暦宣明暦の長暦による。

背景
信西の執政

保元元年(1156年)の保元の乱に勝利した後白河天皇は、同年閏9月に『保元新制』と呼ばれる代替わり新制を発令した。「九州の地は一人の有なり。王命の外、何ぞ私威を施さん」と王土思想を強く宣言したこの新制は、荘園整理令を主たる内容としていた。鳥羽院政期は全国に多くの荘園が形成され、各地で国務の遂行をめぐって紛争が起きていた。この荘園整理令はその混乱を収拾して、全国の荘園・国衙領、公領を天皇の統治下に置くことを意図したものであり、荘園公領制の成立への大きな契機となった新制とされている。その国政改革を立案・推進したのが、後白河の側近である信西であった。

信西は改革実現のために、記録所を設置する。長官である上卿には大納言・三条公教が就任、実務を担当する弁官からは右中弁・藤原惟方、左少弁・源雅頼、右少弁・藤原俊憲(信西の嫡子)が起用され、その下で21人の寄人が荘園領主から提出された文書の審査、本所間の争論の裁判にあたった(後白河が「暗主」であるという信西の言葉は、この記録所の寄人だった清原頼業九条兼実に後年語ったものである)。さらに内裏の復興にも着手して、保元2年(1157年)10月に再建した。その直後にも新たに新制30ヶ条を出し、公事・行事の整備、官人の綱紀粛正に取り組んだ。この過程で信西とその一族の台頭は目覚ましく、高階重仲の女を母とする俊憲・貞憲は弁官として父と共に実務を担当する一方で、藤原朝子(後白河の乳母)を母とする成憲脩憲はそれぞれ遠江・美濃の受領となった。信西自身は、保元の乱で敗死した藤原頼長の所領を没収して後院領に組み込み、自らはその預所になるなど経済基盤の確保にも余念がなかった。
平氏一門の台頭

国政改革推進のため、信西は平清盛を厚遇する。平氏一門は北面武士の中で最大兵力を有していたが、乱後には清盛が播磨守、平頼盛が安芸守、平教盛が淡路守、平経盛が常陸介と兄弟で四ヶ国の受領を占めてさらに勢力を拡大した。また、荘園整理、荘官・百姓の取り締まり、神人悪僧の統制、戦乱で荒廃した京都の治安維持のためにも、平氏の武力は不可欠だった。大和守に平基盛が任じられたのも、平氏に対する期待の現れといえる。大和は興福寺の所領が充満していて、これまで国検をしようとしても神人・悪僧の抵抗によりことごとく失敗に終わっていた。清盛は武力を背景に国検を断行する一方、寺社勢力の特権もある程度は認めるなど柔軟な対応で、大和の知行国支配を行った。さらに清盛は大宰大弐に就任することで日宋貿易に深く関与することになり、経済的実力を高めた。信西は、自らの子・藤原成範と清盛の女(後の花山院兼雅室)の婚約によって平氏との提携を世間に示し、改革は順調に進行するかに見えた。
二条親政派の攻勢

しかし、ここにもう一つ別の政治勢力が存在していた。美福門院を中心に東宮・守仁の擁立を図る勢力(二条親政派)である。美福門院は、鳥羽法皇から荘園の大半を相続して最大の荘園領主となっており、その意向を無視することはできなかった。美福門院はかねてからの念願であった、自らの養子・守仁の即位を信西に要求した。もともと後白河の即位は守仁即位までの中継ぎとして実現したものであり、信西も美福門院の要求を拒むことはできず、保元3年(1158年)8月4日、信西と美福門院の協議により後白河天皇は守仁親王に譲位した(二条天皇)。ここに、後白河院政派と二条親政派の対立が始まることになる。二条親政派は藤原経宗(二条の伯父)・藤原惟方(二条の乳兄弟、記録所の弁官の一人)が中心となり、美福門院の支援を背景に後白河の政治活動を抑圧する。これに対して後白河は近衛天皇急死により突然皇位を継いだこともあり、頼れるのは信西のみであった。しかも信西自身も元は鳥羽法皇の側近で美福門院とも強い関係を有していることから、状況は不利であった。後白河にとっては、自らの院政を支える近臣の育成が急務となった。
信頼の登場

そこで後白河は、武蔵守・藤原信頼を抜擢する。信頼は保元2年(1157年)3月に右近権中将になると、10月に蔵人頭、翌年2月に参議皇后宮権亮、8月に権中納言、11月に検非違使別当と急速に昇進する。もともと信頼の一門は武蔵国・陸奥国を知行国としており、両国と深いつながりを持つ源義朝と連携していた。久寿2年(1155年)8月に源義平(義朝の長男)が叔父の源義賢を滅ぼした武蔵国での大蔵合戦においても、武蔵守であった信頼の支援があったと推測される。保元3年(1158年)8月に後白河院庁が開設されると、信頼は院の軍馬を管理する厩別当に就任する。義朝は宮中の軍馬を管理する左馬頭であり、両者の同盟関係はさらに強固となった。義朝の武力という切り札を得た信頼は、自らの妹と摂関家の嫡子・近衛基実の婚姻も実現させる。摂関家は保元の乱によって藤原忠実の知行国・頼長の所領が没収された上に、家人として荘園管理の武力を担っていた源為義らが処刑されたことで各地の荘園で紛争が激化するなど、その勢力を大きく後退させていた。混乱の収拾のためには代替の武力が必要であり義朝と密接なつながりのある信頼との提携もやむを得ないことであった。後白河の近臣としては他にも、藤原成親藤原家成の三男)や源師仲が加わり院政派の陣容も整えられた。
反信西派の形成

ここに、信西一門・二条親政派・後白河院政派・平氏一門がそれぞれ形成されることになった。『平治物語』では信頼が近衛大将を希望して、信西が断ったために確執が生まれたとする。しかし『愚管抄』にはその話は見えず、大将に任じられるのは院近臣の身分では常識的に無理なことから事実かどうかは疑わしいとする見方がある一方で、既に信頼は2年弱で受領から権中納言まで進むという常識的に無理な昇進を果たしており、その背景にあった後白河上皇の恩寵があれば更なる昇進が可能という期待感を抱かせたとすればあり得ない話ではないとする見方[2]もある。信西一門の政治主導に対する反発が、平治の乱勃発の最大の原因と思われる。二条親政派と後白河院政派は互いに激しく対立していたが、信西の排除という点では意見が一致し、信西打倒の機会を伺っていた。一方、清盛は自らの娘を信西の子・成憲に嫁がせていたが、信頼の嫡子・信親にも娘(後の藤原隆房室)を嫁がせるなど、両派の対立では中立的立場にあった。平治元年12月(1160年1月)、清盛が熊野参詣に赴き京都に軍事的空白が生まれた隙をついて、反信西派は反乱を起こした。
経過
三条殿襲撃三条東殿跡(平治の乱勃発地)

12月9日深夜、藤原信頼と信頼に同心した武将らの軍勢が院御所・三条殿を襲撃する。信頼らは後白河上皇・上西門院(後白河の同母姉)の身柄を確保すると、三条殿に火をかけて逃げる者には容赦なく矢を射掛けた。警備にあたっていた大江家仲・平康忠、一般官人や女房などが犠牲となるが、信西一門はすでに逃亡していた。信頼らは後白河と上西門院を二条天皇が居る内裏内の一本御書所に移して軟禁状態にした(ただし、『愚管抄』には後白河は「すゑまいらせて」とあり、信頼は一本御書所に後白河を擁したとも解される記述をしている)。後白河を乗せる車は源師仲が用意し、源重成源光基源季実が護送した。源光基は美福門院の家人・源光保の甥であり、京都の治安を預かる検非違使別当は藤原惟方であることから、クーデターには二条親政派の同意があったと推測される。翌10日には、信西の子息(俊憲・貞憲・成憲・脩憲)が捕縛され、22日に全員の配流が決定した。13日、信西は山城国田原に逃れ、土中に埋めた箱の中に隠れたが、発見されて掘り起こされる音を聞き、喉を突いて自害した。光保は信西の首を切って京都に戻り、首は大路を渡され獄門に晒された。

信西が自害した翌日の14日、内裏に二条天皇・後白河上皇を確保して政権を掌握した信頼は、臨時除目を行った。この除目で源義朝は播磨守、嫡子・頼朝右兵衛権佐となった。『平治物語』は信頼が近衛大将になったとするが、『愚管抄』にその話は見えない。藤原伊通はこの除目について「人を多く殺した者が官位を得るなら、なぜ三条殿の井戸に官位をやらないのか(先の襲撃で多くの者が火を避けて飛び込んだ)」と皮肉ったという。信頼の政権奪取には大半の貴族が反感を抱いていたが、二条親政派も義朝の武力を背景とした信頼の独断専行を見て、密かに離反の機会を窺っていた。その最中、東国より兵を率いて馳せ上った源義平は直ちに清盛の帰路を討ち取るよう主張したが、信頼はその必要はないと退けた。信頼にしてみれば嫡男・信親と清盛の女の婚姻関係により、清盛も自らの協力者になると見込んでいた。
二条天皇の六波羅行幸『平治物語絵巻』六波羅行幸巻(東京国立博物館蔵)、国宝

清盛は、熊野詣に赴く途中の紀伊国で京都の異変を知った。動転した清盛[注釈 3]は九州へ落ち延びることも考えるが、紀伊の武士・湯浅宗重熊野別当湛快の協力により、17日帰京する。帰京までに、伊藤景綱・館貞保などの伊賀・伊勢の郎等が合流した。一方、義朝はクーデターのため隠密裏に少人数の軍勢を集めたに過ぎず、合戦を想定していなかった。京都の軍事バランスは大きく変化し、信頼の優位は揺らぐことになる。信西と親しかった内大臣・三条公教は信頼の専横に憤りを抱き、清盛を説得するとともに二条親政派の経宗・惟方に接触を図った。二条親政派にすれば信西打倒を果たしたことにより、信頼ら後白河院政派は用済みとなっていた。公教と惟方により二条天皇の六波羅行幸の計画が練られ、藤原尹明(信西の従兄弟・惟方の義兄弟)が密命を帯びて内裏に参入する。25日早朝、清盛は信頼に名簿を提出して恭順の意を示し、婿に迎えていた信親を送り返した。信頼は清盛が味方についたことを喜ぶが、義朝は信親を警護していた清盛の郎等(難波経房・館貞保・平盛信・伊藤景綱)が「一人当千」の武者であることから危惧を抱いたという[5]

25日夜、惟方が後白河のもとを訪れて[注釈 5]二条天皇の脱出計画を知らせると、後白河はすぐに仁和寺に脱出した[注釈 6]。日付が変わって26日丑刻(午前2時)、二条天皇は内裏を出て[注釈 7]清盛の邸である六波羅へと移動する。藤原成頼(惟方の弟)がこれを触れて回ったことで、公卿・諸大夫は続々と六波羅に集結する。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:55 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef