平沢 貞通(ひらさわ さだみち、1892年〈明治25年〉2月18日 - 1987年〈昭和62年〉5月10日)は、日本のテンペラ画家。北海道小樽市出身[1](東京府生まれ)。雅号は大ワ(たいしょう)、後に光彩(こうさい)[2]。
戦後の混乱期に発生した大量毒殺事件である帝銀事件の犯人として逮捕され、死刑が確定する。だが刑の執行も釈放もされないまま、逮捕から死までの39年間を獄中で過ごした。 平沢は一流の画家であった。二科展に3回、文展に16回、光風会には毎年入選し、「帝展無鑑査」(過去の輝かしい実績を評価され審査員の鑑査なしに無条件で出品できること)であった[3]。
来歴・生涯大正期に石井柏亭が撮影した平沢の肖像。
前半生
1892年2月18日、東京・大手町の帝国陸軍憲兵隊本部官舎で生まれる。父は憲兵[3]。
1896年、北海道の札幌憲兵隊に転勤した父とともに、北海道に移住[3]。
1911年、日本水彩画研究所に入所。
1912年、旧制札幌中学校を経て[4]、父の小樽への転勤に伴い(福島・中田・小木 2018[5],p.281)同小樽中学校卒業。
1913年、日本水彩画会結成に石井柏亭・磯部忠一
1914年、二科展ができ平沢三味二(さみじ。当時の雅号)名義で出品して入選。これが機縁となり、横山大観の門を叩き、横山から「大ワ」という雅号をもらう[3]。交友を深めた作家の有島武郎も、平沢への手紙の中で画家としての優れた才能を認めた[6]。
1916年、結婚[3]。平沢は妻とのあいだに二男三女をもうけた。
1919年、第1回帝展に出品。
1920年、東京の板橋区中丸町に移住[3]。
1921年、第9回光風会展で今村奨励賞を受賞。平沢は画家として成功し、収入は、コルサコフ症候群で倒れる前には、月額平均300円位はあった(福島・中田・小木 2018[5],p.283)。ちなみに当時の大卒サラリーマンの初任給(月給)は50円ないし60円程度、職業婦人の平均月給はタイピストが40円、電話交換手が35円、事務員が30円だった[7]。
1925年、5月、板橋の自宅で飼っていた愛犬が狂犬病にかかって処分された。飼い主の平沢は狂犬病の予防注射を受けた直後、意識不明となって入院し、8月までの3ヶ月間、人事不省となった(注射の副作用でコルサコフ症候群にかかったとされる)。平沢は、隣に住んでいた石井鶴三の好意で、根岸脳病院の森田正馬(「森田療法」で有名)の診察を受けることができた。森田は、平沢の病名はコルサコフ氏病という非常に珍しい病気であると診断し、「回復はとても覚束ないが、生命には別状はない」と述べた。平沢は意識を取り戻したあと、強盗に襲われた体験が夜昼となくフラッシュバックして妻に襲いかかったり、虚言症でとめどない嘘ばかりつくようになった(平沢マサ1949[8],pp.42-45)。後に、調子が少しよくなったあとは画壇に復帰して「鏡」「心眼」「明朗奉天城外」「皇城大観」などの大作を次々と完成した[3]。
1930年、日本水彩画家会委員に就任。
1945年、弟子の女性との長年におよぶ不倫[9]が原因で、終戦前、疎開先の北海道で妻子と別居[3]。