平松まゆき
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平松 まゆき(ひらまつまゆき、1976年8月17日-)は、大分県別府市出身[1][2]の元歌手弁護士立教大学文学部卒業、立教大学大学院日本文学科前期博士課程修了、名古屋大学法科大学院修了。血液型O型。
略歴

5歳頃から15歳頃までバレエを嗜んだ[3]。中学1年生 (12歳)だった1989年東鳩オールレーズンプリンセスコンテストに選出され[4]CM[2]文化放送の東鳩提供の番組『アイドルストーリー 風見しんごのYaYaCLUB』などに出演[5]したのちに芸能活動を休止した。

中学3年生で一人で上京して、高校に通いながらレッスンは続けた[1]。高校2年生の1993年9月に、TBSラジオ主催の第1回シンデレラドリームオーディションに合格し、10月に始まった深夜番組シンデレラドリーム ミッドナイト☆パーティー』(以下「ミッドナイト☆パーティー」と略称)でデビューした。番組開始当初はレギュラーメンバーには加わらなかったが、11月13日にTBSホールで催された第1回の番組主催イベントで、同じ番組のパーソナリティー仲間だった坂井美唯子松宮麻衣子らとともに歌うシンデレラに選ばれた。当時はマライア・キャリーに憧れてソウルフルなアーティスト[6]を志していた

1994年3月に火曜日深夜2部(26:00 - 27:00・水曜日午前2:00 - 3:00)のメインパーソナリティーで、初めてレギュラーで番組を担当する。7月21日にシングル『たかが恋よされど恋ね』(日本コロムビア)で歌手デビュー。TBSテレビ系『世界ふしぎ発見!』のエンディングテーマとして使われた[1]。10月から水曜深夜1部(24:00 - 26:00・木曜午前0:00 - 2:00)を担当し、21日にセカンドシングル『青のジェネレーション』、11月21日にファーストアルバム『Sweet Soul Transistor』をそれぞれ発売した。ミッドナイト☆パーティーシンデレラ(パーソナリティー)でアルバムを発売したのは平松だけである。1995年に企画ユニット「ICE BOX BABY」へ参加すると、メンバーに藤田エミ(藤田恵美)、小柳ゆきの姉である美裕リュウ、大本友子らがいた。『冷たくしないで』(4月)と『HUTOCCHO MAMA』(8月)の2枚シングルとアルバム『二人の夏曜日』(7月)を発売した。10月のミッドナイト☆パーティー終了後に、後継番組の『ウィークエンド・ミッドナイト☆パーティー』へ数回ゲスト出演した。12月にソロ復帰後初シングル『もっとちゃんと。』を発売し、テレビ朝日系『はなきんデータH』のエンディングテーマとして使われた。1996年は、1月から9月まで、文化放送『ミュージックステーション』(テレビ朝日系の同タイトル番組と異なる)の水曜深夜(木曜未明)担当パーソナリティーを担当し、5月にサッカーJリーグ柏レイソルのオフィシャルチアリングソング『Dive,and Go!』を発売した。歌手時代は芸能事務所のケイダッシュに所属[7]し、学業は立教大学、同大学大学院[2]で学んだ。

芸能活動は充実していたものの、帰郷して同年代の友人と話して学校でのレポートやサークル活動について聞くと、自分は「20歳になったが、何も勉強できていない」と焦りが募ったことから進学を決意した[1]。模擬試験では最初、偏差値が30だったが猛勉強で立教大学合格にこぎ付けた[1]

軽音楽サークルなどを含めて大学生活を送るうちに芸能界から遠ざかることになった[1]が、2001年に歌の師匠であったCHAKAのライブにボーカルとして出演している。2004年に、佐藤江梨子主演の実写版『キューティーハニー』上映を記念してこれまでアニメで放送または上映されたキューティーハニーのテーマソングなどを集めたベストアルバム『キューティーハニー SONG COLLECTION SPECIAL』に、1995年12月に発売した「もっとちゃんと。」のカップリング曲「さよならの伝説」が収録されている。キーボーディストのYokoと「Maxima」を結成し、そこでCurly(カーリー)の名前でボーカルを務めるも、Maximaは2006年4月28日に渋谷の「PLUG」のライブを最後に活動を休止した。

2008年樋口了一の番組など大分県のテレビ、FMラジオの番組にゲスト出演したほか、田村俊英と組んで「田村俊英feat.平松まゆき」として制作した『We Are Trinita!』が大分トリニータ2009年の応援ソングに選ばれ、3月29日に九州石油ドームで催された大分トリニータと大宮アルディージャの試合で歌唱した[8]

立教大学文学部を卒業して大学院日本文学科前期博士課程を修了[9]したのち、外資系製薬会社で働いた[10]。30歳の頃「楽しいと思うことを選んで生きてきた」これまでの自分が「社会に役立っているのだろうか」と自問自答するようになった[1]冤罪が疑われている名張毒ぶどう酒事件ドキュメンタリー番組を見て[10]「ここまで誰かのために尽くす職業があるのか」と衝撃を受け[1]司法試験に向けて学び始めた[11][2]。名古屋大学法科大学院で学び、在学時は「名張毒ぶどう酒事件・奥西勝さんを守る東京の会」に名を連ねた[12][13][14]。大分の講演会で知ったハンセン病訴訟弁護団共同代表の弁護士徳田靖之を目標に[10]伊藤塾でも法律を学び[9]2015年に3度目の受験で司法試験に合格[1]司法修習を経て弁護士となる。登録番号55351[15]で大分県弁護士会に登録している[2]2017年1月に大分市で法律事務所を開業[2]してハンセン病元患者家族国家賠償訴訟原告弁護団の一員として活動している[10]


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