平時望
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 凡例平時望
時代平安時代前期 - 中期
生誕元慶元年(877年
死没承平8年3月25日938年4月27日
官位従三位中納言
主君宇多天皇醍醐天皇朱雀天皇
氏族桓武平氏高棟
父母父:平惟範、母:人康親王の娘
兄弟時望、伊望
妻元姫(藤原菅根の娘)
珍材、真材、寛子
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平 時望(たいら の ときもち)は、平安時代前期から中期にかけての公卿桓武平氏高棟流、中納言平惟範の長男。官位従三位・中納言。
経歴

寛平7年(895年)に周防権介に初任。寛平9年(897年)に醍醐天皇の即位に伴い従五位下叙爵される。

昌泰3年(900年左京亮に任ぜられて京官に復帰した後、民部大輔大蔵少輔左衛門権佐・大蔵権大輔などを歴任する。延喜16年(916年)権右少弁に転じると、延喜17年(917年正五位下、延喜18年(918年)右少弁、延喜19年(919年)左少弁、延喜21年(921年従四位下と醍醐朝中期は弁官を務めながら順調に昇進した。延喜23年(923年)には皇太子・慶頼王春宮亮を兼ねるが、延長3年(925年)慶頼王が薨去したために春宮亮を解かれている。その後も、延長5年(927年蔵人頭、延長6年(928年)従四位上・右大弁と醍醐朝末にかけて要職を歴任し、延長8年(930年)弟の伊望に遅れること3年にして参議に任ぜられて公卿に列した。ここで時望は従四位上・参議となり官位面で伊望に追いつくが、伊望は承平2年(932年正四位下に昇叙され再び差をつけられてしまう。

朱雀朝では議政官として左右大弁・修理大夫などを兼帯し、承平4年(934年)正月に正四位下に叙せられ再び伊望に追いつくが、伊望は3月に正四位上、12月に従三位中納言に叙任され、三度差をつけられる。承平7年(937年)時望は大弁を務めた功労として、上位の参議5名(源清蔭源是茂藤原伊衡橘公頼藤原当幹)を越えて従三位・中納言に叙任され、三度伊望に追いついた。翌承平8年(938年)3月25日薨去。享年62。最終官位は中納言従三位。
人物

勅撰歌人として、和歌作品が『後撰和歌集』に1首採録されている[1]
官歴

公卿補任』による。

寛平4年(892年) 11月10日:聴雑袍

寛平7年(895年) 2月17日:周防権介

寛平9年(897年) 7月13日:従五位下(御即位陽成院御給)

昌泰3年(900年) 8月20日:左京亮

延喜4年(904年) 2月26日:民部少輔

延喜8年(908年) 正月7日:従五位上。8月28日:大蔵少輔

延喜10年(910年) 5月9日:左衛門権佐

延喜15年(915年) 6月25日:大蔵権大輔(或いは大蔵大輔)

延喜16年(916年) 3月28日:権右少弁

延喜17年(917年) 正月7日:正五位下

延喜18年(918年) 正月12日:右少弁。3月28日:兼造東大寺講堂長官

延喜19年(919年) 正月28日:左少弁

延喜21年(921年) 正月7日:従四位下。1月30日:修理大夫

延喜23年(923年) 4月29日:兼春宮亮皇太子慶頼王)。6月27日:昇殿

延長2年(924年) 2月1日[2]:兼信濃権守

延長3年(925年) 1月30日:兼伊予守。6月:解春宮亮(春宮薨去)

延長5年(927年) 2月9日:蔵人頭、大夫亮伊予守如元

延長6年(928年) 正月7日:従四位上。6月9日:右大弁、修理大夫如元

延長8年(930年) 正月29日:参議、右大弁・修理大夫如元

承平元年(931年) 日付不詳:兼讃岐権守

承平3年(933年) 10月24日:兼左大弁


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