平時忠
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 凡例平 時忠
時代平安時代末期-鎌倉時代初期
生誕大治5年(1130年)?
死没文治5年2月24日1189年3月12日
別名悪別当、平大納言、平関白
官位正二位権大納言
主君近衛天皇後白河天皇二条天皇六条天皇高倉天皇安徳天皇後鳥羽天皇
氏族桓武平氏高棟
父母父:平時信
母:令子内親王半物
兄弟時子、時忠、冷泉局、滋子親宗
清子藤原親隆室、帥局、坊門殿
妻継室:藤原領子
時実時家、時宗、宣子、蕨姫、時定、時国、玉織姫、中山忠親
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平 時忠(たいら の ときただ)は、平安時代末期の公家桓武平氏高棟流(堂上平氏)、兵部権大輔平時信の子。官位正二位権大納言。母は二条大宮(令子内親王)の半物(はしたもの、下仕えの女房)をしていた女性(氏素性は未詳)。平清盛継室である平時子の同母弟。後白河法皇の寵妃で高倉天皇の母・建春門院は異母妹にあたる。平大納言、平関白と称された。
生涯
生い立ち

時忠の母については『吉記』に、二条大宮(令子内親王)に仕えた半物であったことが記されている[1]。この女性は時信との間に、時忠・時子・藤原親隆の室を産んだ。やがて時信との関係は疎遠となり、右少弁・藤原顕憲と再婚して法勝寺執行・能円を産む。顕憲の死後、時忠と時子は母を引き取って孝養を尽くしたという。

時忠と時子の年齢については、『兵範記』の清盛出家の記事の中に「相国今年五十一、二品四十三云々」[2] とあることから、時子は大治元年(1126年)生まれとなる。記主の平信範は時子の叔父なので信憑性は高い。時忠は『公卿補任』記載の年齢から逆算すれば、大治5年(1130年)生まれである。しかし『吾妻鏡』には、時忠の薨去を聞いた源頼朝が周囲の者に年齢を尋ねたところ、62歳という返事があったと記されている[3]。これによれば、時忠は大治3年(1128年)生まれとなる。時忠の生年は確定できないが、いずれにしても時子が年長である。『保暦間記』にも「平大納言時忠ト申ハ、太政入道ノ北方二位殿ノ弟也」とある。

久安2年(1146年)3月、17歳で非蔵人、翌年正月に六位蔵人となる。久安4年(1148年)から翌年にかけて検非違使左衛門少尉となる。久安5年(1149年)4月に叙爵して、蔵人・検非違使の任を離れた[注釈 1]仁平4年(1154年)8月8日の鳥羽法皇による新御堂法会・仏像安置の儀式に、時忠は平清盛と共に院司として列席している[4]
憲仁親王擁立と配流

平治の乱が終わり清盛の発言力が著しく高まった永暦元年(1160年)4月、時忠は検非違使・右衛門権佐に抜擢された。翌年正月には清盛が検非違使別当に就任して京都の治安維持の責任者となり、時忠は清盛の下で現場の指揮に当たった。さらに10月には右少弁も兼任する。高棟流平氏は実務官人の家系だったが、太政官の事務を処理する弁官を輩出していたのは別系統の平時範の子孫であり、時忠の系統は主に院や摂関家家司として活動していた。

この頃から時忠は清盛の思惑から外れ、独自の動きを見せるようになる。平治の乱の後、政治の主導権を巡って後白河上皇二条天皇が激しく対立する中で、応保元年(1161年)9月3日、妹の滋子が後白河上皇の第七皇子(憲仁親王、後の高倉天皇)を出産した。その直後の15日、時忠は清盛の弟・平教盛とともに二条天皇により解官された。『愚管抄』によれば「ユユシキ過言」をしたのが原因であったという[注釈 2]。翌年6月、院近臣源資賢が二条天皇を賀茂社呪詛したとして解官されるが、時忠も陰謀に関わったとして23日に出雲国に配流された。教盛が短期間で赦免されたのに対してはるかに重い処罰であり、二条天皇親政派が時忠を強く警戒していたことがうかがわれる。この事件において清盛は二条天皇支持の立場をとり、時忠に手を差し伸べることはなかった。
召還、公卿昇進

永万元年(1165年)7月に二条天皇が崩御すると、時忠は召還される(9月14日)。翌仁安元年(1166年)3月に本位に復すと、4月に左少弁、6月には右中弁・検非違使佐・左衛門権佐・五位蔵人を兼任し三事兼帯となった。10月10日には、5年前に果たせなかった憲仁親王の立太子が実現する。翌月、清盛が内大臣となり、時忠も蔵人頭に補された。清盛の大臣就任に不満を抱き、五節の節会に欠席した藤原朝方徳大寺実家が解官されたことによる後任人事だったが、非蔵人から累進して蔵人頭にまでなったのは極めて異例のことだった。位階正五位下から従四位下に昇叙され、翌仁安2年(1167年)正月に正四位下・右大弁、2月11日には参議右兵衛督となり、召還されてわずか2年余りで公卿への昇進を果たした。

仁安3年(1168年)2月に憲仁親王が践祚(高倉天皇)、3月には妹・滋子が皇太后となる。滋子の叔父・平信範は平教盛とともに蔵人頭となり、時忠は従三位に叙せられた。清盛が出家して政界を表向き引退したこともあって、高倉天皇即位後の政治は後白河院が主導権を握った。時忠も滋子の兄という立場から、後白河院の側近として活動することになる。7月3日、右衛門督・検非違使別当に就任するが、尉・佐を歴任して別当になったのは時忠が初めてだった。8月には権中納言となる。同月、清盛の致仕により空席となっていた太政大臣花山院忠雅が任じられ、時忠は慶賀の儀式に出席している。12月、伊勢神宮の正殿が焼失すると、翌嘉応元年(1169年)正月、復興のための公卿勅使として伊勢国に派遣された。4月に滋子が建春門院の院号を宣下されたことにより、女院別当に補される。11月に新帝の八十嶋祭が盛大に執り行われ、時忠も公卿として行列に加わった。後白河院政は平氏一門の協力で磐石なものとなり、政情も安定するかに見えた。
嘉応の強訴と再度の失脚

ところが12月に突如として延暦寺が院近臣・藤原成親を流罪に処すよう要求して強訴を起こした(嘉応の強訴)。成親の知行国である尾張国目代・政友が延暦寺領美濃国平野荘の神人に乱暴を働いたことが発端だった。


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