平手造酒
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 凡例平田三亀(平手造酒)
山々亭有人記、月岡芳年画『近世侠義傳』より
時代江戸時代後期
生誕不明
死没天保15年8月7日
別名良忠
戒名儀刀信忠居士
墓所心光寺(千葉県香取郡神崎町松崎)
延命寺(千葉県香取郡東庄町
主君松平頼恕
讃岐高松藩
父母平田伴五(吾)
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平手 造酒(ひらて みき)は、講談浪曲などで広く親しまれた『天保水滸伝』に登場する剣客。実名は平田 三亀(ひらた みき)。生い立ちは詳らかではないが、讃岐高松家で小納戸役などを務めた平田伴五(吾)の子とする説がある[1]。剣術修業として諸国を遍歴、天保5年以来、下総国に滞在。天保15年8月6日、飯岡助五郎一家と笹川繁蔵一家の間で繰り広げられた「大利根河原の決闘」に笹川方の用心棒として参戦、全身に11か所の刀傷を負って闘死した。

嘉永3年、この史実を元にした実録体小説『天保水滸伝』[2]が著されると、三亀は無念流の極意を究めながら酒乱で剣の道を踏み外し、博徒の用心棒に身を窶して最後は喧嘩場で命を落とす奥州の浪士・平手造酒として描かれた。以後、この人物像は流派や生国を変えながらも講談や浪曲を通して拡散され、昭和以降は鶴田浩二天知茂が映画で演ずるなど、時代劇ではおなじみのキャラクターとなるまでになった。
実名

平手造酒の実名については、かつては平田深喜とする説が有力だった。これは子母沢寛が『游侠奇談』で紹介した「御見分書」の記載による。

御見分書
無宿浪人 平田深喜
一、疵請ケ死人
但シ年齢三十七八才位、天窓ニ長サ六寸程之十文字切疵壹ケ所、同打込疵長サ壹寸程宛づゝ三ケ所、右之肩ニ長サ貳寸程、左肩ニ三寸程、同腕ニ貳寸程、切疵左脇腹より心中に掛リ長サ八寸程之疵、同膝ニ長サ三寸程之切疵都合拾壹ケ所有之、繁蔵宅前ニ倒レ居候間、医師相掛ケ、疵口療治仕候得共、養生不相叶、今七日暁子ノ刻(午前零時)ニ相果候義ニ御座候[3]

しかし、昭和40年頃、千葉県香取郡神崎町松崎地内を流れる浄光川の河川改修工事に伴い、堤防沿いの草むらの中から「平田三亀之墓」と刻まれた墓石が発見され、これにより平田三亀が正しいことが判明した[4]

さらに、平成2年になって下関市立長府図書館に所蔵されている笹尾家文書『諸国武術御修行者姓名録』に「関口流佐藤雄太門人 讃岐高松家中 平田三亀」という記載があることが発見された。従来、三亀の生国については紀州・水戸・佐倉・南部など定説がなかったが、これにより讃州高松であることが確定した[5]

その後も平田三亀に関する史料の発見が続き、平成5年に千葉県立大利根博物館で開催された「特別展・天保水滸伝の世界」では三亀が浅山一伝流を伝授されていることを伝える史料の存在が報告された。その史料とは千葉県香取郡佐原でかつて浅山一伝流師範本城知胤道場を開いていた本城家に伝わる「入門起請文」で、実際に起請文を見た辻淳によれば、起請文には「讃岐高松藩中 平田三亀 源良忠」と記されており、これにより三亀のが良忠であることも明かとなった。また辻によれば、署名は三亀の自筆で諱の下には血判も捺されているという[6]
流派

上述のごとく、三亀は『諸国武術御修行者姓名録』には「関口流佐藤雄太門人」と記しており、また浅山一伝流師範本城知胤道場の「入門起請文」にも名前があることから浅山一伝流を修めていたことも裏付けられる。一方、三亀をモデルとして生み出された平手造酒は講談や浪曲などでは北辰一刀流千葉周作の門人とされており、千葉周作門下の四天王とするものもある。これについて辻淳は「平田三亀が千葉周作門下となり北辰一刀流を学んだ事を立証するものは何もない」[7]としつつも、いくつかの事実を挙げて三亀が千葉周作の門人であった可能性を指摘している。その1つは、当時、農民らが幕府に提出した「直訴嘆願書」の中に「御当地千葉周作門人にて剣術免許受候平田深喜」との記載があること[8]。もう1つは、三亀が千葉周作の妻だった女性の実家(加瀬家)で療養していたとする口承があること。この事実を伝えているのはキッコーマンの「中興の祖」とされる茂木啓三郎で、その著書『私の履歴書』で大叔父に当たる陸軍少将・加藤倭武について記す中で、こんなエピソードを披露している。

 この大叔父のところに、日本陸軍の騎兵の創始者皷包武の娘のぶが嫁している。皷家は今の岸、佐藤一族とは親類だということである。また、この大叔父の姉くには私の母の生母であり、その親類の者が千葉周作に嫁していると聞いた。祖母は神田のお玉ケ池の千葉道場にはたびたび行ったということである。そんな関係でもあるのか、平手造酒は、この祖母の実家――やはり加瀬家といい、家号は中西という――へ療養にきていたそうである。大叔父のいうところによると、千葉道場が愛弟子造酒の保養の地として、九十九里沿岸の親類を選んだのであろうということである。その土地は笹川とほど遠からず、平手造酒は椎名内から笹川へおっ取り刀で駆けつける――これが有名な天保水滸伝笹川繁蔵のくだりということになるのである[9]

これを受け、辻は「これまで以上に三亀の周作門人説に信憑性が加わったと思いたい」[10]と記している。
決闘当日の行動

上述のごとく、決闘当日、三亀は椎名村の加瀬家から笹川に駆けつけたとする口承がある他、講談などでは神代村字桜井の尼寺(妙円寺)から駆けつけたとされており、子母沢寛も「続ふところ手帖」でそれを裏づけるようなことを書いている[11]

一方で決闘当時の三亀の行動を全く異る様相で伝えている史料も存在する。徳川時代、下総国香取郡須賀山村の中根家領の名主を代々務めた土屋吉郎兵衛が書き記した「心得書」がそれで、当日の三亀(文中では深喜)の様子を次のように記している。

(略)其他繁蔵方ニテ剣術遣ヘ浪人平田深喜ト申者数ヶ所手疵ヲ負ヘ、西浜通リ往還ニ倒レ居ル、治療不届、是亦相果ル、一体此者ヲ繁蔵儀、飯岡方之間者ト疑惑し一両日前ニ両刀ハ取上ケ置候由、然ル処六日朝騒動出来候ニ付、深喜儀無腰ニ而無致方、側ニ有合ヤクザ脇差ヲ押取、立合候よし、ヤクザ物ニ付、直ニ鍔元より折レ、戦ヘ不相成、手疵ヲ受ケ、命ヲ捨タルよし繁蔵懸疑不致、両刀ヲ為持置候ハヽ先方ニハ亦々多分之死人怪我人モ可出来事ト申合リ[12]

笹川繁蔵が平田三亀を飯岡方の間者と疑い、決闘の「一両日前」に両刀を取り上げていた。そのため、決闘当日、三亀は無腰で、やむなく側にあったやくざの脇差を押し取り現場に駆けつけた。


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