平成研究会会長を務める茂木敏充
略称茂木派
(竹下登派→
小渕派→
橋本派→
津島派→
額賀派→
竹下亘派→
茂木派)
前身木曜クラブ(田中派)
設立1987年(昭和62年)7月4日
設立者竹下登
種類自由民主党の派閥
本部全国町村会館西館
所在地東京都千代田区永田町1丁目11-32
会員数自由民主党所属国会議員
会長茂木敏充
関連組織木曜クラブ(二階堂G)
改革フォーラム21(羽田派)
予算242,021,860円(2010年)[1]
ウェブサイトhttps://heiseiken.jp/
かつての呼び名経世会
平成政治研究会
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全国町村会館西館(千代田区永田町)。平成研究会が入居する
平成研究会(へいせいけんきゅうかい)は、自由民主党の派閥。略称は平成研(へいせいけん)。通称は茂木派。
旧称は経世会(けいせいかい)。自由党吉田茂派を起源に持ち、周山会(佐藤派)・木曜クラブ(田中派)の流れを汲む。吉田茂が率いた自由党の流れを汲むため、宏池会系派閥(宏池会(岸田派)、志公会(麻生派)、有隣会(谷垣グループ))と共に保守本流とされる派閥の1つである。 自由党の流れを汲むため、宏池会系派閥(宏池会(岸田派)、志公会(麻生派)、有隣会(谷垣グループ))とともに保守本流とされる。派閥の源流は旧自由党の吉田派から佐藤派(周山会)と池田派(宏池会)と分ける形で派閥を形成したことが始まりである。その後、田中角栄が1972年に木曜クラブ(田中派)として佐藤派の大部分を引き連れ独立、さらに竹下登が1985年2月7日、派内の勉強会「創政会」を結成。同年2月27日、田中が脳梗塞で倒れ、1987年7月4日、竹下は経世会として田中派の大部分を引き連れ独立した。1994年に平成政治研究会に改称し、その後現在の平成研究会に再度改称されて現在に至る。 田中派時代の昭和50年代から平成中期にかけて主流派として自民党の政治に大きな影響を与えた。田中が最大派閥を維持し闇将軍と呼ばれるほど大きな影響力を発揮、その後昭和の末期に竹下登が経世会として独立してから総理大臣に就任した。その後竹下が総理大臣を辞任した後も影響力は大きく、小沢一郎や羽田孜らが改革フォーラム21として経世会から独立し所属議員数が党内4位に転落しながらも橋本龍太郎や小渕恵三などの総理大臣を誕生させるなど主流派として長年活動していた。しかしその後は、小渕以来総理・総裁を誕生させられていないどころか2003年の自由民主党総裁選挙候補であった藤井孝男以来派閥として独自候補を擁立できない状況が続いており、総裁以上にさまざまな人物が就任している党幹事長にも2000年に野中広務が退いて2021年に茂木敏充が14人のべ16代ぶりに就任するまで厳しい状況が続いた。そのようなこともあり、派内から派閥領袖に就任した者の指導力に対する疑問が出たり、派閥として結束した行動ができないケースもしばしばある。 民主党政権下でも出身者の鳩山由紀夫が総理大臣、小沢一郎が幹事長、岡田克也が幹事長と副総理を務めて中枢を担っていた。 1985年2月7日、自民党を離党しながらも派閥領袖として影響力を持ち続ける田中角栄に反旗を翻した竹下登、金丸信らを中心に、木曜クラブ(田中派→二階堂グループ)内に勉強会として創政会が結成される[2]。田中の激しい巻き返しに遭うが、同月27日に脳梗塞を発症した田中は政治活動ができなくなり、竹下の優勢が固まった。 1986年4月25日、創政会は解散され[3]、反対派や中間派の取り込みが図られた。 1987年2月28日の第75版『国会便覧』(日本政経新聞社)時点における木曜クラブ(田中派)所属議員は139人[4][注 1]。 同年5月21日、政治資金パーティー「竹下登自民党幹事長激励の夕べ」が東京プリンスホテルで開かれ、史上空前の1万3千人が参集した。売り上げはおよそ20億円と言われ[5]、田中派からの参加者は128人と9割以上に達した。欠席した二階堂グループの議員はわずか13人で、圧倒的な力の差を見せつけた[6]。同年7月1日、田中派の常任幹事会が開かれるが、総裁候補一本化をめぐる二階堂、竹下両グループの話し合いは決裂。ついに田中派の分裂が確定した[7]。竹下登・金丸信が小沢一郎・小渕恵三・橋本龍太郎ら「竹下派七奉行」を従え田中角栄の派閥を乗っ取った。 同年7月4日、新派閥の経世会が結成された。参加議員は計113人[8][9]。派閥名は民生や経済を意味し中国の古典にある「経世済民」から取られた。会長には竹下が就任し、竹下派と呼ばれた。ここに至り、当時141人の議員を有していた田中派は、(1)竹下派、(2)木曜クラブ(二階堂グループ)、(3)中立系の3つのグループに分裂した[10]。分裂時の各グループの内訳は下記のとおり[11]。 派閥議員数議員名 同年10月20日、中曽根康弘の裁定により、竹下、安倍晋太郎、宮澤喜一のうちの3人から、竹下が次期自民党総裁に内定した[12][13]。
概要
沿革
竹下登派時代竹下登
竹下派113(省略)
二階堂グループ15江ア真澄、久野忠治、二階堂進、松野幸泰、山下元利、稲村利幸、小坂徳三郎、田村良平、
林義郎、有馬元治、保岡興治、田中直紀、井上吉夫、川原新次郎、吉川芳男
中立系13小沢辰男、渡辺紘三、戸井田三郎、後藤田正晴、今枝敬雄、木村睦男、河本嘉久蔵、世耕政隆、
大鷹淑子、森下泰、長谷川信、浦田勝、海江田鶴造