平惟範
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 凡例平惟範
時代平安時代前期
生誕斉衡2年(855年
死没延喜9年9月18日(909年11月3日
官位従三位中納言
主君陽成天皇光孝天皇宇多天皇醍醐天皇
氏族桓武平氏
父母父:平高棟、母:藤原長良長女・有子
兄弟実雄正範、惟範、季長、信孝、
藤原房雄
人康親王
時望伊望
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平 惟範(たいら の これのり)は、平安時代前期の公卿桓武平氏大納言平高棟(高棟王)の三男[1]官位従三位中納言目次

1 経歴

2 人物

3 官歴

4 系譜

5 脚注

6 参考文献

経歴

貞観16年(874年)三世王の蔭位により従五位下に直叙され、蔵人に任ぜられて清和天皇の退位までの3年間天皇の身近に仕える。翌貞観17年(875年皇太后宮権亮にも任ぜられ、以降清和・陽成光孝宇多四朝の30年近くの長きに亘って、清和天皇の母である皇太后藤原明子にも仕えた。この間、元慶元年(877年)従五位上、元慶4年(880年正五位下仁和2年(886年従四位下、寛平6年(894年)従四位上と順調に昇進する。また、仁和4年(888年)には前年即位したばかりながら、天皇親政に意欲を見せる宇多天皇の要請を受けて、封事七ヶ条を奏上している[2]

醍醐朝延喜2年(902年参議に任ぜられ公卿に列す。議政官として大蔵卿左兵衛督を兼帯し、この間の延喜4年(904年正四位下に昇叙されている。延喜8年(908年従三位中納言に叙任され、翌延喜9年(909年右近衛大将を兼ねるが、同年9月18日薨去享年55。最終官位は中納言従三位右近衛大将。
人物

学識に優れ、醍醐天皇の命により貞観から延喜年間までの詔勅類をまとめた『延喜格』の編纂に参画した。

漢詩にも通じ、宇多朝仁和4年(888年)に画師・巨勢金岡御所障子に当代の優れた漢詩人を描いた際、惟範もそのひとりに選ばれている[3]。また、翌寛平元年(889年)に行われた残菊宴で詠んだ漢詩作品が伝わっている[4]
官歴

注記のないものは『日本三代実録』による。

貞観16年(874年) 正月23日:従五位下直叙[1]。12月6日:蔵人[1]

貞観17年(875年) 8月15日:皇太后宮権亮[1]皇太后藤原明子

元慶元年(877年) 11月21日:従五位上

元慶3年(879年) 2月15日:兼備後権介[1]

元慶4年(880年) 正月11日:兼備前権介[1]。4月15日:正五位下

元慶6年(882年) 正月7日:太皇太后宮権亮(皇太后・藤原明子が太皇太后になる)

仁和2年(886年) 正月7日:従四位下

仁和3年(887年) 2月17日:兼民部大輔。5月13日:兼弾正大弼、太皇太后宮権亮如元

仁和5年(889年) 4月13日:聴雑色袍[1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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