平忠彦
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平忠彦
1989年日本GPにて
グランプリでの経歴
国籍 日本
チームヤマハ
レース数42
チャンピオン0
優勝回数1
表彰台回数2
通算獲得ポイント181
ポールポジション回数2
ファステストラップ回数1
初グランプリ1984年 500cc ダッチTT
初勝利1986年 250cc サンマリノGP
最終グランプリ1991年 500cc 日本GP
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平 忠彦(たいら ただひこ、1956年11月12日 - )は、福島県南相馬市(旧原町市)出身の元オートバイロードレースライダーである。

端正な容貌、ダイナミックかつ緻密なライディング、人気と実力を兼ね備えたライダーであり、1980年代の国内ヤマハワークスでエースの地位を得た。しかしスターにありがちな派手な言動は全く無く、穏やかな人柄で男女問わず多くのファンを獲得した。速さは勿論の事、卓越したマシン開発能力がありロードレース世界選手権 (WGP、現Moto GP) に優れたマシンを供給し、ヤマハのタイトル獲得に貢献した。目次

1 来歴

2 年表

3 鈴鹿8耐での活躍

4 メディアへの登場

5 レプリカヘルメット

6 戦績

6.1 ロードレース世界選手権

6.2 鈴鹿8時間耐久ロードレース


7 脚注

8 関連項目

9 外部リンク

来歴

父と兄の影響で幼い頃よりオートバイに興味を持ち、19歳よりレーサーとしての活動を始める[1]。1970年代末に頭角を現し、1980年に全日本ロードレース選手権国際A級350ccクラスでチャンピオンを獲得(最初に所属した名門レーシングチームイナレーシングチームやスポーツライダーの野口種晴の下での下積みを経て、ヤマハワークスライダーとなった)。最高峰である500ccクラスにステップアップし、1983年にヤマハとワークスライダー契約を結ぶと、1983年から1985年まで3年連続全日本チャンピオンを獲得した。1985年7月に「キング・ケニー」ことケニー・ロバーツとコンビを組んで鈴鹿8時間耐久レースに出場。その話題性と、スタート失敗から追い上げトップを走行しながら残り30分でリタイアという劇的な結末(後述)は鈴鹿8耐の歴史に残る名シーンとなった[2]

国内最速の地位を築く一方、1984年より機をみて海外レースへのスポット参戦を始める。1986年と1987年はマールボロ・ヤマハよりロードレース世界選手権(WGP)にフル参戦し、初年度は250ccクラスで1勝(サンマリノGP)。1987年は500ccクラスで表彰台1回(3位・チェコスロバキアGP)を獲得した。その後、引退した河崎裕之からヤマハの開発ライダーとしての役割を引継ぎ徐々にレース参戦の機会を減らしていったが、地元の日本GPでは1988年と1989年に2年連続ポールポジションを獲得、1990年の鈴鹿8耐ではエディ・ローソンとのコンビで念願の優勝を果たした。1991年は久々に全日本500ccクラスにフル参戦し、1992年に35歳で現役を引退した。

引退後は静岡県浜松市中区でオートバイショップ「タイラレーシング」を経営しつつ、ライディングスクールやツーリングイベント、講演会などでオートバイの魅力を伝える普及活動に取り組んでいる。2008年よりヤマハレーシングのチーム監督に就任。2010年はチームマネージャーという肩書ではあるが、実質的なチーム監督として全日本ロードレース選手権のJSB1000クラスに「YSPレーシングチームウィズTRC」、「TAIRA Racing」の2チームを率いて参戦し、チーム運営にも関わっていた。

なお、長男の平龍彦は陸上競技走り高跳び)の選手で、2011年のインターハイで優勝するなどの活躍をしている。
年表

1978年 -
全日本ロードレース選手権250ccクラス・ランキング3位(ノービス

1979年 - 全日本ロードレース選手権350ccクラス・チャンピオン(ジュニア

1980年 - 鈴鹿8時間耐久ロードレースに初出場・39位(三原嗣厚/ホンダ・CB750E)

1980年 - 全日本ロードレース選手権350ccクラス・チャンピオン(国際A級)

1981年 - 全日本ロードレース選手権500ccクラス・ランキング6位(国際A級)

1982年 - 全日本ロードレース選手権500ccクラス・ランキング4位(ヤマハTZ500

1983年 - 全日本ロードレース選手権500ccクラス・チャンピオン(ヤマハYZR500-0W70)
1984年型YZR500 (#1)

1984年 - 全日本ロードレース選手権500ccクラス・チャンピオン(2年連続、YZR500-0W76)

ロードレース世界選手権500ccクラス・ランキング16位(スポット参戦/マールボロ・ヤマハ・アゴスティーニ

シーズン開幕前にはアメリカ・デイトナ200に参戦(YZR700-0W69)


1985年 - 全日本ロードレース選手権500ccクラス・チャンピオン(3年連続、YZR500-0W81)

ロードレース世界選手権500ccクラス・ランキング21位(スポット参戦/マールボロ・ヤマハ・アゴスティーニ)

鈴鹿8時間耐久ロードレース・リタイア(ケニー・ロバーツ/FZR750-0W74)※17位完走扱い

1986年型YZR250 (#31)

1986年 - ロードレース世界選手権(WGP)250ccクラス・ランキング9位(マールボロ・ヤマハ・アゴスティーニ/YZR250-0W82)

全日本ロードレース選手権500ccクラス(2戦のみスポット参戦して2勝、YZR500-0W81)

鈴鹿8時間耐久ロードレース・リタイア(クリスチャン・サロン/ヤマハYZF750-0W80)

WGPフル参戦初年度、開幕戦スペインGPハラマ)で予選2位を獲得し周囲の期待が一段と高まるも、スタートでエンジンが掛からず後続車に激突され左足を骨折[3]。この怪我の影響と、この年YZR250の最大の欠点であった始動性の悪さに苦しめられ[4]、シーズン中には右足も負傷してしまう。最終戦サンマリノGPミサノ)でも予選2位からスタートを失敗して出遅れたが、後方から猛チャージをみせてWGP優勝を飾った[5]。この時平が付けていたゼッケン「31番」は、ヤマハワークスの後輩で、1993年にWGP250ccクラスを制した原田哲也が受け継ぐことになる。

WGPシーズン終了後は国内の500ccクラスにスポット参戦し、日本GPではワイン・ガードナー、TBCビッグロードレースではエディ・ローソンを破って連勝。


1987年 - ロードレース世界選手権500ccクラス・ランキング6位(マールボロ・ヤマハ・アゴスティーニ/YZR500-0W86)

チェコスロバキアGPブルノ)で500ccクラスでは自身初(そして唯一の)となる3位表彰台を獲得した。


1988年 - ロードレース世界選手権500ccクラス・ランキング15位(スポット参戦/YZR500-0W98)

全日本ロードレース選手権500ccクラス(スポット参戦)

鈴鹿8時間耐久ロードレース・リタイア(マイケル・ドゥーハン/YZF750-0WA0)※9位完走扱い

スポット参戦したWGP開幕戦の日本GP・500ccクラスで、最高峰クラスにおいて日本人初となるポールポジションを獲得した。


1989年 - ロードレース世界選手権500ccクラス・ランキング14位(スポット参戦/YZR500-0WA8)


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