平帝_(漢)
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劉衍」とは別人です。

平帝 劉?
前漢
第14代皇帝
王朝前漢
在位期間元寿2年9月1日 - 元始5年12月16日
前1年10月17日 - 6年2月3日
都城長安
姓・諱劉箕子→劉?
諡号孝平皇帝
廟号元宗
生年元延4年(前9年
没年元始5年12月16日
6年2月3日
父劉興
母衛姫
后妃王皇后
陵墓康陵
年号元始 : 1年 - 5年

平帝(へいてい)は、前漢の第14代皇帝。漢の第11代皇帝である元帝の孫にあたる。は、箕子であったが、帝位についてから、?(かん)に改名した[1] 。漢の第13代皇帝であり、従兄にあたる哀帝の後を継いで漢の皇帝位につくが、帝位の期間、実権は完全に王莽に握られ、母の一族も王莽によって殺害され、平帝もまた、14歳にして死去した。

前漢の実質的な最後の皇帝であり、王莽に毒殺されたという説も存在するが、平帝の在位期間に、漢王朝は盛大を極めたとも伝えられる[2]

平帝の在位期間に行われた王莽の礼制や官制を中心とした諸改革は、後に、「元始故事」や「元始中の故事」と呼ばれ、後漢に受け継がれ、さらに「漢魏故事」「漢魏旧制」として、後世の中国の王朝にも大きな影響を与えている[3]
生涯
中山王時代

劉箕子の母の衛姫の父の衛子豪は、中山国盧奴県の出身であり、官職は衛尉に至った人物であった[4]。衛子豪の妹は、宣帝のul(高位の側室)となり楚王劉囂を生み、衛子豪の長女もまた、元帝のulとなり、平陽公主を生んでいた[5]。劉箕子の父の中山孝王劉興(中国語版)に子がなかったため、劉興の兄にあたる成帝が、(子を産む)衛氏の吉祥により、衛子豪の下の娘にたる衛姫を劉興にめあわせた[6]

元延4年(前9年)、元帝の末子である中山孝王劉興(中国語版)と、有力官僚の娘であった衛姫の間に生まれる[7]。箕子と名付けられた(当時はまだ即位していないが、以下便宜上「平帝」と記載)。

元延5年(前8年)、父の中山孝王劉興が死去し、平帝はわずか2歳あるいは3歳で中山王の爵位を継いだ[8]。平帝には病があったため、祖母の馮氏(中山孝王劉興の母)が自ら養育し、しばしば祈祷を行ったという[9]

しかし新たに哀帝(平帝の従兄)が即位すると、中郎謁者の張由が中山国にいた平帝の治療に訪れたものの、張由にはパニックを起こしやすい体質であり、中山でもこれを発症して長安に引き返してしまった[10]。これを叱責されたため、張由は「馮氏が、哀帝と傅太后(哀帝の祖母)を呪詛していた」と誣告した[11]。傅太后はかねてより馮氏を恨んでおり、誣告を受けると中山国の官僚たち多数の取り調べを行い、結果馮氏は自害した[12]。この告訴により、張由は関内侯の爵位を受け、史立は中太僕に昇進した[13]
皇帝即位

元寿2年(前1年)6月、哀帝が死去し、哀帝に後継ぎがなかったため、哀帝の腹心であった大司馬董賢に代わって漢の政治の実権を握った太皇太后王政君と新都侯王莽は、中山王であった劉箕子(平帝)を新たな皇帝に擁立した。王莽は政治を壟断しようと考え、成帝の皇后であった趙飛燕、董賢の一族や哀帝の外戚であった丁氏・傅氏らを免官とした[14]

平帝は当時9歳であり、朝廷の実権は太皇太后の王政君と大司馬の王莽が握った。即位すると平帝の名で大赦が出され、「小さな悪事で有能な人物が妨げられる事があってはならない。大赦以前のことは、今後は奏上することはないようにせよ」との詔が発された[15]
元始の政治の開始

元始元年(1年)正月、益州越裳氏が通訳を通じて、白雉一羽、黒雉二羽を献じた。(平帝の名で)詔が行われ、三公に命じて、白雉と黒雉を宗廟に備えさせた。群臣たちが、王莽の功績は周公旦に匹敵するものであると奏上したため、安漢公の号を与え、太師の孔光たちの封じた土地を増やした。20世紀の日本の中国史学者である東晋次は、「白雉は瑞鳥であるという伝承は、この時代には既に定着していたと考えられる」「王莽は平帝を周の成王(周の第2代の王、武王の子)、自身をその成王を補佐した周公旦になぞらえようと試みていた」と論じている[16]

6月、少傅・左将軍甄豊を朝廷から派遣し、中山孝王姫であった母の衛姫に璽綬を与え、中山孝王后に任じた。また、衛姫の兄弟である衛宝とその弟である衛玄は関内侯の爵位を与えられた。また、平帝の三人の妹にあたる劉謁臣は修義君に、劉皮は承礼君に、劉鬲子は尊徳君に封じられ、各々食邑各二千戸が与えられた[17]

元始2年(2年)、諱の『箕子』は様々な場で用いられている漢字であるため、忌諱の都合を考慮して『?』と諱を改める詔を発した[18][1]。同年4月、王莽の提案を容れて各地の皇族の封爵、および宣帝代の宰相霍光の同族の霍陽、漢初異性王の一人の張耳の子孫の張慶忌、建国の功臣であった樊?の五世の孫の樊章、同じく建国の功臣の周勃の玄孫の周共らの列侯を行った。東晋次は「これら王朝の功臣の子孫らへの封爵は、崩壊しかかった漢王朝の再建を目的としていたと考えられる」と論じている[19]

同年、各地で猛暑と蝗害が相次ぎ、青州では民衆が流亡する事態となった。王莽を始めとする重臣たち230人余りは、自身の私有する田地を国庫に献上して民衆に施し、また民衆がイナゴを捕らえて官吏に差し出した場合は、その量を計って銭を与える事を布告した。また財産を一定以上持たない民衆からの租税の免除、疫病に疾患した民衆の収容・手当の支給、死者が出た家庭への葬儀費用の支援、安定郡や首都長安の貧民の移住区域としての開放、田宅や什器・牛・種もみ、食糧などの支給・貸与などの、人命救済のための政策を実施した。

後漢代に編纂された「漢書」によれば、この年は前漢としては盛大を極めたと伝えられ、郡や国の数は103、県や邑の数は1,314、道は32、侯国は241。地は東西9,302里、南北13,368里。領土は、1億4,513万6,405頃であり、その1億252万8,889頃の大部分は、宅地・道路・山川・林沢などで耕作できない土地であった。3,229万947頃は開墾できる土地であり、開墾済みの土地は827万536頃であった。民は1,223万3,062戸、人口は5,959万4,978人いた[20]
皇后選定と母の一族の粛清

元始3年(3年)、王莽の提言により平帝の皇后選びが進められる[21]。後宮入りする女性たちの中には王莽の娘の名もあったが、王莽はこれを辞退し[22]、太皇太后の王政君もまたこれを辞退した[23]。しかし 宮殿正門には毎日千人以上もの民衆・官吏らが、王莽の娘を後宮に入れるようにと上書してきたため、王政君はやむなく王莽の娘の後宮入りを認めた。公卿たちは王莽の娘を皇后に選ぶよう進言し、また占いを行ったところ吉とでたため、王莽の娘の皇后に冊立が決定したとされる[24]

同年、王莽の長男の王宇や彼の義兄(妻の兄)の呂寛、王宇の師である呉章が、平帝の母の衛姫を長安に入れるよう働きかけるために、奇怪なことで王莽を脅そうと、王莽の屋敷に血液を塗布するという事件が発生する。事の発覚後王宇は自害し、王宇の妻も処刑され、呂寛も捕まった[25]。王莽はこの事件に乗じて、自身の邪魔になる人間たちを濡れ衣を着せて処刑や自害に追い込み、この際に平帝の母の衛姫の兄弟であった衛宝・衛玄ら衛氏一族を、衛姫を除いてことごとく誅殺した。詳細は「王宇」を参照
王莽が宰衡となる

元始4年(4年)正月、高祖劉邦と文帝劉恒の郊祀を行った(天子七廟制)[26]。また詔を発し、犯罪者の親族に関しては拘留を禁止し、自宅での取り調べに限定する旨を告知した。

2月、王莽の娘の王氏を皇后に立て[27]、大赦を行う。4月、太保の王舜らが王莽に伊尹・周の周公旦に倣って大賞を与えるべきであると奏上した。さらに、民に(同様のことを)上書するものが八千余人もあらわれ、公卿たちもみな言った「伊尹は阿衡、周公旦は太宰となりました。(王莽に)同様の大賞を与えられますように」[28]

官僚たちに検討させると、官僚たちは「大礼を明らかにするため」と言って、次のように要請してきた。


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