.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}平川 祐弘(ひらかわ すけひろ)
生誕 (1931-07-11) 1931年7月11日(92歳)
日本・東京府北豊島郡滝野川町(現:東京都北区)
国籍 日本
研究分野文学(比較文学、日本文学、イタリア文学)、文化史(比較文化史)
研究機関東京大学
福岡女学院大学
大手前大学
国家基本問題研究所
出身校東京大学(学士・修士・博士)
主な受賞歴紫綬褒章
瑞宝中綬章
プロジェクト:人物伝
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平川 祐弘(.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:平川 祐󠄀弘、ひらかわ すけひろ、1931年〈昭和6年〉7月11日 - )は、日本の比較文学研究者・評論家。東京大学名誉教授。国家基本問題研究所理事[1]。 昭和19年(1944年)、東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)卒業。同じクラス(第1部)に、東大で同僚となった芳賀徹、石井進、高階秀爾、平田賢の五人がいた[2]。 昭和23年(1948年)、旧制東京高師附属中学(現・筑波大学附属中学校・高校)4年修了(特別科学学級在籍)[3]で旧制第一高等学校理科甲類入学。1年修了で昭和24年(1949年)に新制東京大学に入学。 昭和28年(1953年)、東京大学教養学部教養学科フランス分科卒業(第一期生)、同大学院人文科学研究科比較文学比較文化専修課程進学(第一期生)[4]。フランス政府給費生、イタリア政府給費生として留学[5]。 昭和36年(1961年)、同修士課程修了(文学修士)、同博士後期課程進学[5]。昭和39年(1964年)、同博士後期課程単位満期取得退学[5]。昭和49年(1974年)、11月11日、文学博士(東京大学、学位請求論文『和魂洋才の系譜:内と外からの明治日本』[6])。 昭和39年(1964年)、東京大学教養学部助手[7]。昭和44年(1969年)、同助教授。昭和53年(1978年)、同教授。昭和63年(1988年)、東京大学比較文化研究室主任。平成4年(1992年)、同退任。 昭和62年(1987年)、昭和63年(1988年)の東大駒場騒動時には、蓮實重彦、佐藤誠三郎、公文俊平、村上泰亮、村上陽一郎、芳賀徹、鳥海靖、舛添要一、松原隆一郎、大森彌らと共に、中沢新一を推薦した西部邁の支持に回った。 1992年、東京大学定年退官、東京大学名誉教授。同年、福岡女学院大学に赴任し、同教授となる。2002年、同退職、大手前大学教授。2006年、同退職[8]。 修士課程在学中に5年近くフランス、イタリア、ドイツに留学し、各国語に通じる。帰国後の1961年、修士論文を短縮した『ルネサンスの詩』を刊行、またダンテの『神曲』を口語体で翻訳した。1971年、博士論文『和魂洋才の系譜』[6]、1974年に『西欧の衝撃と日本』、1976年に『夏目漱石 非西洋の苦闘』を刊行した。
来歴
研究