平岡工場
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平岡工場種類匿名組合(創立時)
平岡?個人経営(明治27年-)[1]
本社所在地日本
東京市小石川[1]
設立明治23年6月23日 [1]
業種製造業
事業内容鉄道車両メーカー[1]
代表者平岡?
所有者益田孝,平岡?,渋沢栄一[1]
関係する人物渋沢栄一[1]
特記事項:汽車製造に事業譲渡
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平岡工場(ひらおかこうじょう)は、平岡?渋沢栄一らによって設立された[1]日本における初期の鉄道車両メーカー。明治中期に東京市で活動した。日本最初の民間客貨車メーカーである。後に汽車製造と合併した。
沿革
創業

日本の鉄道車両は、1872年(明治5年)の京浜間鉄道の開業以来、一貫して輸入で賄われてきた。客車貨車はその後、国内製造が開始されたが、当時は民間の重工業が未熟であったため、これら客貨車の製造は各鉄道事業者が自営工場で行っていた[2]

工部省鉄道局新橋工場の技師であった平岡?は、そのような状況を打開して車両のさらなる国産化を推進するには民間に鉄道車両工業を興すべきと考え、1890年(明治23年)、鉄道局を辞して、東京市小石川区陸軍東京砲兵工廠の敷地・設備を借用し、渋沢栄一益田孝らと匿名組合平岡工場を設立した[1]

その後1894年(明治27年)3月末をもって砲兵工廠の借地を返納し、それと同時に匿名組合を解散し、平岡工場は平岡の個人経営となっている[1]。翌4月より本所区総武鉄道本所駅(現・総武本線錦糸町駅)の隣接地に自前の工場を開設している[1]
発展

1895年(明治28年)には京都電気鉄道へ28人乗り路面電車車両の車体を納入した[3]。これは日本初の営業運転に供された電車であり、後に京都電気鉄道が市営化されて京都市電になった後「N電」と呼ばれた、狭軌線用車両群の第1陣に当たるものであった。

平岡工場は客貨車製造の国内最大手として発展した。1897年(明治30年)末に日本最初の近代的労働組合である鉄工組合が結成された際には、平岡工場からは43人が組合員として参加している。

平岡工場の登場は鉄道車両工業への新規参入の呼び水となり、1896年(明治29年)に日本車輌製造汽車製造が設立され、1908年(明治41年)には川崎造船所(現・川崎重工業、鉄道車両部門は現・川崎車両)が鉄道車両製造に参入した。中でも汽車製造は、平岡の鉄道局時代の上司である井上勝の会社であったため、1899年(明治32年)の開業にあたり、業界随一の技術と実績を持つ平岡を副社長として迎えている。


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