平山太郎
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ひらやま たろう
平山 太郎

生誕 (1849-07-24) 1849年7月24日嘉永2年6月5日
日向国宮崎郡佐土原(現・宮崎県宮崎市佐土原町
死没 (1891-06-08) 1891年6月8日(41歳没)
熊本県熊本市
墓地明神山(宮崎県宮崎市佐土原町)
国籍 日本
別名靖斎、蕉陰()、武卓()、徳太郎
職業官吏
肩書き従六位
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平山 太郎(ひらやま たろう[1]1849年7月24日嘉永2年6月5日) - 1891年明治24年)6月8日)は明治時代前半期の日本文部官僚。旧佐土原藩士。旧名徳太郎、は武卓。は靖斎、蕉陰[2]

体操伝習所筑波大学体育専門群の前身の一つ)主幹、東京図書館国立国会図書館の前身の一つ)館長、第五高等中学校熊本大学の前身の一つ)校長を歴任した。
来歴

嘉永2年6月5日[3]1849年7月24日)、平山武兵衛(は武尭)の子として日向国佐土原に生まれる。藩儒児玉平格に学んだのち鹿児島に遊学し、造士館射術を修めた。次いで重野安繹の門に入り、慶応3年(1867年)には江戸に上って水本樹堂に師事。その後昌平学校に進んだ[2]

明治2年(1869年)9月、藩命により米国で海軍学を修めるため、藩主島津忠寛の長男又之進(島津忠亮)、次男丸岡武郎(大村純雄)、藩士橋口宗儀とともに横浜を出港。はじめラトガース・カレッジのあるニュージャージー州ニューブランズウィックに滞在し、のちに島津とともにマサチューセッツ州ボストンに移った[4]。明治4年(1871年)7月に佐土原藩が廃藩となったのち、平山は海軍省の官費留学生に選ばれて学業を続けたが[5]、明治6年(1873年)12月に・海軍省派遣をのぞく官費海外留学生の一斉召還が決定された際に帰国命令を受け[6]、翌年10月に日本に戻った[7]

帰国後は海軍省十等出仕となり、明治8年(1875年)6月に海軍中秘書に就任したものの、同年10月に免官となっている[8]。明治10年(1877年)、内務省勧農局五等属となり[9]、明治11年(1878年)中には文部省学監事務所に勤務。同じくニューブランズウィックで学んだ経験のある折田彦市服部一三とともに、文部省顧問として来日していた前ラトガース・カレッジ教授ダビッド・モルレーの事務を助けた[10]。モルレーの契約満期による学監事務所の廃止後は、明治12年(1879年)10月に音楽取調掛勤務となったのち文部一等属に進み、明治13年(1880年)4月から翌明治14年(1881年)4月まで体操伝習所主幹を務めた[11]。同年12月には東京図書館長に就任[12]。明治18年(1885年)6月、文部権大書記官に転じて学務二局兼編輯局勤務となり、11月から訓盲唖院長を兼務したが、12月に非職となった[13]

その後、明治19年(1886年)5月に第三高等中学校幹事として復職[14]。明治23年(1890年)2月には第五高等中学校長に就任するも、在職中の翌年6月8日、病のため熊本で死去した。享年43[15]。校長時代の功績としては新校舎開校式を挙行したこと、秋月胤永を教諭に招いたことが知られている[16]


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