平山亨
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 ひらやま とおる
平山 亨
別名義

八手三郎

田中守

大門勲[1]

海堂肇[2]

生年月日 (1929-03-19) 1929年3月19日
没年月日 (2013-07-31) 2013年7月31日(84歳没)
出生地 日本愛知県名古屋市
死没地 日本埼玉県狭山市
ジャンル

映画監督

テレビプロデューサー

活動期間1954年 - 1990年
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平山 亨(ひらやま とおる、1929年3月19日[3][4] - 2013年7月31日[5][6])は、株式会社レッド・エンタテインメント・デリヴァー取締役[7]東映では、助監督(映画)、映画監督、テレビプロデューサーを務めた。作詞家として八手三郎および田中守のペンネームを用いている[8]。映画監督の松村昌治(中山昌一)[9]は義兄[6]
経歴

1929年に母の実家の名古屋市で4人兄弟の長男として出生。父は鉄道省勤務。出生時の自宅は東京都だったが、転居を繰り返して東京都と名古屋市で育つ[10][注釈 1]

旧制中学校時代の1944年には、学徒動員防空壕作りや疎開工事、工場勤務などの勤労奉仕に従事した[11]

終戦後の1947年4月に青山学院専門学校(現・青山学院大学)の英文科に入学[12]1948年4月に旧制高等学校成蹊高等学校に入り直す[13]。翌1949年の学制改革に伴う旧制高校廃止により、旧帝国大学受験が可能になったため、東京大学文学部に合格して入学した[14]。東京大学文学部美術史科の同期生には映画監督の奥中惇夫がおり、後に『悪魔くん』で再会を果たす[15][注釈 2]

東大では竹内敏雄にヘーゲル美学を学びながらも興味を持てず、映画監督を目指す。卒論テーマは「人間の生き熊の美学」[17]。大学卒業に際し、映画会社やマスコミ関係の就職試験を受けるもすべて不合格となったため、卒業を1年延期して知人の紹介で各映画会社のアルバイト助監督を経験[18]。2回目の試験で東映株式会社の入社試験に合格し、1954年3月に東京大学文学部美術史科を卒業[19][6]。3か月の試用期間を経て、東映株式会社に入社[3][4]。同期には、高岩淡小西通雄佐伯孚治らがいた[20]

東映京都撮影所の製作部制作課に配属され[20]松田定次監督に師事し、松田組の助監督となって主に時代劇を担当する[21]。『笛吹童子』で初のテレビ時代劇助監督を務めた[19]。助監督生活は9年におよび、130本以上の作品に参加した[22][23]

1963年に34歳で映画監督に昇任し、『銭形平次捕物控』で初監督[22][6][24]。翌1964年には義兄で後に監督になる松村昌治に指導を受け、東伸テレビ映画のテレビ時代劇『それからの武蔵』『水戸黄門』で初の単独脚本を手掛け、このときにペンネームとして「八手三郎」(やつでさぶろう)を使い出した。これは、常套句の「なんでもやってみよう」⇒「やって みろ」が由来である[25][注釈 3]

1964年に『三匹の浪人』を監督。京都撮影所では計2本の作品を監督したが、テレビの急速な普及で映画の制作本数が激減してその後は仕事がなくなり[26]1965年12月に京都撮影所から東京に異動。東映本社のテレビ部企画者補佐の辞令を受ける[27]。後に東映テレビ事業本部長となる次長の渡邊亮徳の下でテレビ部プロデューサーに就任し、活動を始める[28]

1966年7月にはテレビ部企画者に昇進し、同年10月には宮崎慎一から提案された『悪魔くん』でテレビドラマを初プロデュース[4][6][29]

キャプテンウルトラ』『仮面の忍者 赤影』『ジャイアントロボ』『柔道一直線』などの人気番組を次々と担当し[6]、特に1971年4月より放映開始の『仮面ライダー』は大ヒットとなる。同番組の生みの親の1人として知られるようになって以降も東映制作の数々の石ノ森章太郎原作のテレビ特撮番組を手掛け[6]、一時は石森プロに毎日のように出入りした[30]

『仮面ライダー』より番組楽曲の作詞を行うようになり、主に八手三郎名義でエンディング曲を、田中守名義で挿入歌を手掛けた[8]。平山個人のペンネームとして使われた「八手三郎」は、平山が所属していた東映テレビ事業部(現在は機構改革により映像本部テレビプロデューサー集団)の共同ペンネームとなり、引き続き使われている[8]

1976年10月には子供番組担当の東映テレビ企画営業第二部が新設され、部長代理に就任。翌1977年6月には渡邊亮徳の進言で部長に昇進するが[31]性格的に管理職に向かず、長時間の会議やデスクに張り付く仕事に困惑し、1979年3月には仮病を使って部長職を自ら辞任し、部長代理兼企画に降格した[32]

この間、1977年4月開始の『氷河戦士ガイスラッガー』で初めてアニメをプロデュースした[33]。この他に担当したアニメ作品には、『激走!ルーベンカイザー』『ピンク・レディー物語 栄光の天使たち』がある[34]

1984年より特撮雑誌『宇宙船』に、「私の愛したキャラクターたち」と題して地獄大使甲賀幻妖斎など自身が手がけた脇役たちを主役とした小説を連載した。


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