平宗盛
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 凡例平 宗盛
平宗盛像(『天子摂関御影』収録)
時代平安時代末期
生誕久安3年(1147年
死没元暦2年6月21日1185年7月19日) 享年39
別名右幕下、内府、屋島大臣など
墓所滋賀県野洲市の胴塚
官位従一位内大臣
主君後白河天皇二条天皇六条天皇高倉天皇安徳天皇
氏族桓武平氏維衡流(伊勢平氏
父母父:平清盛、母:平時子
兄弟重盛基盛、宗盛、知盛徳子盛子
重衡完子知度清房御子姫君、ほか
妻正室:平清子
継室:不明(能宗母)、平教盛の娘
清宗能宗、男児、男児、女子(平通盛室)
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平 宗盛(たいら の むねもり)は、平安時代末期の平家一門の武将貴族公卿平清盛の三男。母は清盛の継室平時子。時子の子としては長男であり、安徳天皇の母・建礼門院(平徳子)は同母妹である。官位従一位行内大臣平氏政権惣管。通称は屋島大臣など。
生涯
生い立ち

久安3年(1147年)に生まれる。この時、清盛は30歳、時子は22歳、長兄の重盛は10歳だった。二人とも正室の子として生まれてはいるが母親は異なり、また本人たちの年齢も10歳差と離れていたため、当初から重盛と宗盛の間には対立の芽が内包されていた。

保元の乱終結後の保元2年(1157年)10月、信西の主導により大内裏が再建された。10月22日には内裏造営の賞として叙位が行われ、重盛・頼盛教盛経盛にそれぞれ位階の昇叙があった[1]。同日、宗盛は11歳で従五位下に叙せられている[2]。叙爵の年齢は清盛・重盛より早く、正室・時子の長子として優遇されていた様子が窺える。
二条親政期

平治元年(1159年)12月、宗盛は清盛の熊野参詣に同行していたが、その途上で平治の乱が勃発する。清盛はすぐに都へ引き返すと、二条天皇を内裏から六波羅に脱出させることに成功する。官軍の立場を得た清盛は藤原信頼源義朝を打ち破り、乱は平氏の勝利に終わった。12月27日、乱を鎮圧した勲功を賞する除目が行われ、宗盛は遠江守となる。前任者の重盛が伊予守に任じられたことによる後任人事だった。翌永暦元年(1161年)正月には、異母兄・基盛と任国を交代して淡路守となる。2月には同母弟・知盛が武蔵守となるが、これらの国はいずれも清盛の知行国だった。

11月、鳥羽法皇の遺言で家長となっていた美福門院が死去したことで、後白河院政派と二条親政派の対立が本格化する。応保元年(1161年)9月に憲仁親王(後白河上皇の第七皇子、後の高倉天皇)立太子の陰謀が発覚すると、二条天皇は院近臣を解官して後白河上皇の政治介入を停止した。二条天皇は親政確立に意欲を見せ、蔵人頭・中山忠親に対して直接御前に来て奏上するように命じるが、その連絡役を務めたのは宗盛だった[3]。清盛は二条親政を支持する姿勢を示すために、宗盛を二条天皇の側近として送り込んでいたものと推測される。

応保2年(1162年)10月28日、宗盛は左馬頭となる。左馬頭は宮中の軍馬を管理する馬寮の長官であり、平治の乱以前は源義朝が務めていた。軍事貴族にとっては極めて重要な官職であったため、平治の乱以降は重盛が任じられている。この日、重盛は右兵衛督となっているので、これもまた、重盛が左馬頭を辞任したことによる後任人事と見られる。なお、宗盛が辞任した後の左馬頭は重衡であり、馬寮を平氏一門で独占しようとする清盛の強い意思が感じられる。
建春門院の猶子

長寛2年(1164年)4月、関白・近衛基実と宗盛の妹・盛子の婚姻が成立すると、宗盛は重衡とともに摂関家政所の別当になった。清盛の意図は二条天皇と摂関家に接近することで平氏の勢力を拡大することにあったが、永万元年(1165年)に二条上皇が、翌年に基実が相次いで死去したことで、後白河上皇を支持する方針に変わっていく。仁安元年(1166年)10月10日、後白河上皇は憲仁親王の立太子を行い、翌月には清盛を内大臣に任じた。宗盛は五節の節会において、重盛・知盛とともに舞姫を献じている[4]

翌仁安2年(1167年)5月に清盛は太政大臣を辞任、重盛が平氏の棟梁となる。8月、宗盛は位階が上の叔父・頼盛を超えて参議に補され、一門において重盛に次ぐ地位を確保した。翌月、後白河上皇と寵妃平滋子(建春門院、宗盛の生母時子の異母妹)は熊野参詣を行い、重盛・宗盛も付き従った。この時、重盛が後白河上皇の供をしたのに対して、宗盛は平時忠平親宗(ともに時子と滋子の兄弟で、宗盛の伯父)らと並んで滋子の供をしている。宗盛は母・時子との関係から滋子の猶子となっていた。滋子が女御・皇太后・女院になった際には、家司・皇太后宮権大夫・女院別当となるなど一貫して滋子の側に仕え、妻に滋子の同母妹・清子(高倉天皇の典侍、中納言三位)を迎えている。宗盛が、母の出身である高棟流平氏と密接につながっていたことを物語っている。

嘉応元年(1169年)12月の嘉応の強訴で、後白河法皇は防御のために武士を招集する。武士を率いていたのは重盛・宗盛・頼盛で、兵力の内訳は重盛が200騎、宗盛が130騎、頼盛が150騎だった[5]。宗盛は重盛・頼盛に次ぐ兵力を動員しており、平氏軍の中核を担うまでになっていた。嘉応2年(1170年)12月、宗盛は権中納言に昇進、翌年正月の高倉天皇元服の儀式では装束の奉仕を務めている。

この時期の重盛は殿下乗合事件松殿基房と対立し、権大納言を辞任していた。重盛と宗盛の官位の差は徐々に狭まっていたが、承安元年(1171年)12月、重盛は権大納言に還任する。承安3年(1173年)、宗盛は滋子の御給で従二位に叙せられるが、重盛はそれより上の正二位・権大納言であり、両者の立場が入れ替わることはなかった。承安年間は安定期であり、官位の接近により重盛と宗盛の関係が悪化した形跡は見られない。安元2年(1176年)に催された後白河法皇の50歳の賀にも、宗盛は一門の筆頭である重盛に付き従って出席している。
政権の動揺

安元2年(1176年)7月に滋子が死去したことで、今まで隠されていた平氏と後白河法皇の対立はしだいに顕在化することになる。最大の庇護者を失った宗盛は年末に権中納言を辞任するが、翌安元3年(1177年)正月に重盛が左大将になったことに伴い、還任して空席となった右大将に任じられた。両大将を平氏が独占する形となったが、宗盛は滋子の猶子であり後白河法皇との関係も良好だった。後白河法皇は2月3日の宗盛の拝賀に、殿上人を遣わしている。

3月、後白河法皇が福原を訪れたことで対立は緩和されたかに見えたが、4月になると延暦寺が加賀守・藤原師高流罪を要求して強訴を起こす。後白河法皇は天台座主明雲を解任・配流とするなど、強硬な態度で臨んだ。この事件で重盛・宗盛は、延暦寺との衝突を何とか回避しようと懸命になっていた。5月末に清盛が上洛して後白河法皇と会談を行ったが、後白河法皇の意思は固く延暦寺攻撃が決定される。その直後の6月1日、西光藤原成親らによる平氏打倒の陰謀が発覚する(鹿ケ谷の陰謀)。

院近臣の中核だった西光・成親が殺害されたことで、後白河法皇は平氏への屈服を余儀なくされる。重盛も義兄の成親が関与していたことで面目を失い、政治的地位を失墜させた。宗盛も後白河法皇とは近い関係にあり、難しい立場となったことに変わりはなかった。しかし、重盛が事実上の失脚状態となったことで表舞台に立たざるを得ず、翌治承2年(1178年)4月、権大納言になる。


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