平安女学院
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学校法人平安女学院

平安女学院内に敷設する聖アグネス教会
法人番号1130005004271
創立者エレン・G・エディ
創立1875年(明治8年)
所属学校平安女学院大学
平安女学院中学校・高等学校
平安女学院大学付属こども園
所在地京都府京都市上京区下立売通烏丸西入五町目町172-2
ウェブサイト学校法人平安女学院
プロジェクト:学校/学校法人の記事について
Portal:教育
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学校法人平安女学院(へいあんじょがくいん、英語: St. Agnes' School)は、大学高校中学校幼稚園を運営する学校法人聖アグネス(St. Agnes)を守護聖人とあおぐ。米国聖公会から派遣された教師によって開かれた日本聖公会系のミッション・スクールである。本部は京都府。略称は平女。

前身は、大阪市川口居留地にあった照暗女学校である。
沿革
略歴

起源は1875年、大阪市の川口居留地に英国国教会(イングランド国教会)を始祖とする米国聖公会から派遣されたアメリカ人教師のミス・エレン・ガードルード・エディが、当時手伝っていた男子学校「聖テモテ学校(のちの英和学舎、立教大学の前身)」に英語を習いに来た女子生徒を引き取って始めたMiss Eddy’s School(エディの学校、またはエディ女学院)である。1880年、名称を照暗女学校(英語名:St. Agnes’ School)と改めた(照暗の出典はヨハネによる福音書1章5節の「光は暗きに照り、暗きは之を暁(さと)らざりき。(明治元訳)」である)。同年、米国聖公会主教で後に日本聖公会主教になるジョン・マキムが来日し照暗女学校のチャプレンになる。

1894年、京都への移転のため16人の生徒を立教女学校(現在の立教女学院中学校・高等学校)へ転校させ一時閉校となった。

1895年、現在の名称である「平安女学院」に変更し開校する。

1937年に日中戦争が始まり、戦争の拡大が濃厚になってくると学院の外国人教師も相次いで帰国し、1941年には京都教区のニコルス主教[1]も帰国することとなった。帰国する教師と牧師たちは、多数の書物を学院の図書館に寄贈した。この際、ニコルス主教が学院の土地、建物を日本聖公会へ寄付したため財団法人となる。

戦後は、1947年平安女学院中学校を設置、翌1948年平安女学院高等学校を設置、さらに1950年に専攻部を昇格させ平安女学院短期大学を発足させていき1951年学校法人となる。

1987年短期大学と幼稚園を大阪府高槻市へ移転し、2000年平安女学院大学を滋賀県守山市に開学するが、2005年に滋賀県守山市の校地を閉鎖。大阪府高槻市に統合移転した。2007年、京都府京都市に国際観光学部を新設した。
年表

1874年

3月 - 米国聖公会がインディアナ州サウスベンドのミス・エレン・エディ(Ellen G. Eddy)の派遣を決定[2]

11月 - ミス・エディが中国行の宣教医とその家族一行と共に横浜に到着[3]

11月17日 - ミス・エディが大阪の旧川口居留地に到着[2]


1875年

1月 - ミス・エディが「Miss Eddy's School」を開設[注釈 1]

9月 - 学校名を照暗女学校(英語名:St. Agnes' School)とする[5]


1879年

6月 - 川口居留地6番にあった元オーサカ・ホテルを購入し移転[5]

この年、平均25名の生徒が通い、学校は順調に進展[2]


1880年

米国聖公会主教のジョン・マキムが来日し、照暗女学校のチャプレンに就任。

12月 - 米国聖公会がバージニア州ローカストグローブ(英語版)のミス・ベル・ミチー(Belle T. Michie)を大阪の教師に任命[2]


1881年

2月9日 - ミス・ミチ―が大阪に到着し、照暗女学校でミス・エディを支援[2]

4月12日 - ミス・マーガレット・ミード(Margaret L. Mead)が教師に任命[注釈 2]

6月 - ミス・エディが帰国し[注釈 3]、後任の校長にミス・ミチーが就任。同月、ミス・ミードが大阪に到着[2]


1882年12月14日 - ジョン・マキム牧師の司式で、ミチーが聖バルナバ病院創設者ランニングと結婚。ミチー(ミセス・ラニング)は校長を継続[2]

1883年6月28日 - ミス・ミードが、イギリス海外福音伝道会(SPG)のエドマンド・ホッパー(Edmund C. Hopper)と結婚し、教師を退任[2]

1884年

1月8日 - バージニア州アレキサンドリアのミス・レベッカ・フォールズ(Rebecca F. Falls)が教師に任命[2]

5月2日 - ミス・フォールズが大阪に到着[2]

男子の受け入れをしないことを決定。


1885年

4月 - ミス・フォールズが辞任。米国聖公会ミッションの人員は減少したが、残った人々の尽力で仕事が進展[2]

9月 - 立教大学校(後の立教大学)、立教女学校(後の立教女学院)に勤めていたミス・エマ・ウィリアムソン(Emma Williamson)が担任となる[2]

この年、生徒数は36名から51名に増加[2]


1886年1月 - ミセス・ラニングが辞任し、ミス・エマ・ウィリアムソンが3代目の校長に就任。

1887年 - ミス・ウィリアムソンの手腕により、生徒数は60人に達し、そのうち44人が寮生となった[注釈 4]

1888年 - 学校は繁栄し、1年間の平均生徒数は75名となる[注釈 5]

1891年 - ミス・ウィリアムソンが立教学校に戻ることになり、沢村繁太郎が平安女学院最初の日本人校長(4代目校長)に就任。

1892年 - 学校の京都移転を決定。

1894年 - 移転のため16人の生徒を立教女学校(後の立教女学院中学校・高等学校)へ転校させる。


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