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平安京(へいあんきょう/たいらのみやこ)または平安城(へいあんじょう)は、日本における古代最後の宮都[1]。794年(延暦13年)から1869年(明治2年)までの日本の首都[注釈 1]。
桓武天皇により、長岡京に代わる都として山背国(山城国)愛宕・葛野の両郡にまたがる地が選ばれ、中国の洛陽城や長安城を模して793年(延暦12年)から建設された[2]。翌794年(延暦13年)に遷都。北部中央に宮城・平安宮(大内裏)が建設され、以降歴代の皇居が置かれた。
遷都以来、平清盛により断行された福原遷都(1180年)の期間を除いて、東京奠都まで1100年近くに亘って都[3]であり、1869年(明治2年)まで続いた[4]。今日の京都市街が形成されるに至る。
概要平安京と現在の京都の大きさや位置の関係。赤枠が平安京。(ランドサット衛星写真)
建造地の選定、範囲、都市計画
新都建設地の選定にひそかに入った桓武天皇は、792年(延暦11年)1月そして5月、狩猟をよそおって、候補地のひとつ山背国葛野郡宇太村を訪れた。さらに翌793年(延暦12年)には、大納言の藤原小黒麻呂や左大弁の紀古佐美らも派遣し同地を確認・検討させた。その結果ここが建設地と決まり、新都市建設計画、遷都計画が動き出し、と同時に長岡京の取り壊しが始まった。
当時の山背国葛野・愛宕両郡にまたがる地(結果として現在の京都市街となった地)に東西4.5 km、南北5.2 kmの長方形の都城として計画された。
平安京の計画の大枠(平面計画)は基本的に中国の隋・唐の洛陽城や長安城を手本としたものであり、またやはり長安を模した日本の平城京・長岡京を踏襲したものでもある。都市全体が四角形で、左右対称で、街路が「碁盤の目」状に整然と直交するように設けられ、市街の中心に朱雀大路を南北方向に配置し、政治の中心となる大内裏は朱雀大路の北、都の北辺に設けられた(「北闕型」)。朱雀大路によって分けられた京域の東西をそれぞれ左京・右京と呼んだ(「左・右」はあくまで内裏側から見ての左右である)。また後には大内裏の南を東西に走る二条大路の北を「上辺」(かみのわたり)、南を「下辺」(しものわたり)、さらには「上京」(かみぎょう)、南を「下京」(しもぎょう)と呼ぶようになり、これが地形も相俟って現代の京都で北に行くことを「上ル」、南に行くことを「下ル」と呼ぶことに繋がる。手本となった長安城は羅城(=都市を囲む城壁)で囲まれていたのに対して、平安京では京域南辺の入り口である羅城門の左右の短い部分を除き羅城は造られなかったと考えられている。
平安京は、中国の洛陽城や長安城を模して建設された。しかしその後、長安城になぞらえた右京が早くに衰退、洛陽城になぞらえた左京のみが人口も増えて発展したため、洛陽が平安京の代名詞となった。京都が「京洛」と呼ばれ、「上洛」などと言うようになったのは、そのような事情による。[2]
この地の選定は中国から伝わった陰陽道(風水)に基づく四神相応の考え方を元に行われたという説もある。この四神とは北・玄武、東・青龍、西・白虎、南・朱雀の霊獣をいうが、選地にあたりこれを「山」「川」「道」「沢」に当てはめ、それぞれを船岡山、鴨川、山陰道、巨椋池といった具体的な地物に擬したというものである。この考えは通説となっているものの、現在では否定する研究者も少なくない。それは、平安京が四神相応の地として造られたことが平城京とは異なり不明である上に[注釈 2]、四神を山川道沢とするのは宅地の風水に見られる考え方で、本来都市の風水でもって占地すべき都の四神とは別のものであることなどを理由とするものである。(議論については、「四神相応#平安京」の項参照。)
平安京の範囲は、現代の京都市街より小さく、北限の一条大路は現在の今出川通と丸太町通の中間にある一条通、南限の九条大路は現在のJR京都駅南方、東寺の南側を通る九条通、東限の東京極大路は現在の寺町通にあたる。西限の西京極大路の推定地はJR嵯峨野線花園駅や阪急京都線西京極駅を南北に結んだ線である。
京内は東西南北に走る大路・小路によって40丈(約120メートル)四方の「町」に分けられていた。東西方向に並ぶ町を4列集めたもの(北辺の2列は除く)を「条」、南北方向の列を4つ集めたものを「坊」と呼び、同じ条・坊に属する16の町にはそれぞれ番号が付けられていた(『条坊制』。これによりそれぞれの町は「右京五条三坊十四町」のように呼ばれた。これら街区は、平城京では街路の中心線を基準としていたため、街路の幅の違いによって宅地面積の広狭差が生まれたが、平安京では街路の幅を除いて形成されたため、場所による宅地の広狭が生まれることはなかった。
道幅は小路でも4丈(約12メートル)、大路では8丈(約24メートル)以上あった。朱雀大路に至っては28丈(約84メートル)もの幅であったが、一方で東京極・西京極大路は大路であっても造営当初から10メートル前後と小路より狭い幅であった[5]。また、堀川小路と西堀川小路では中央に川(堀川、西堀川[注釈 3])が流れていた[6]。平安宮(大内裏)付近。朝堂院(八省院)や豊楽院、内裏などの宮殿や各官衙が並ぶ
宮城の平安宮
平安京の北部中央には、天皇が身を置き、まつりごとが行なわれる施設群となる宮城(大内裏)の平安宮が建造された。大内裏には天皇の御所として内裏、即位礼など国家行事を挙行する八省院(「朝堂院」、朝堂院の正殿が「大極殿」)、大規模な饗宴が行われた豊楽院、神事を行う中和院や仏事に関わる真言院、その他二官八省の政庁、衛府などが並び立った。
なおそれらは、平安京の衰微とともに、太政官庁など大内霊場(おおうちれいじょう)と呼ばれた4つの建物を残して荒廃し、後にこれらも倒壊して遂に当時の大内裏を偲ばせるものはすべて無くなってしまった。ただし、新たな内裏である京都御所が建設されるとこれを平安宮と称するなど、その名が完全に忘れ去られることはなかった。 平安京は、延暦13年10月22日(西暦794年11月22日)から、一説には明治2年(1869年)まで日本の首都であったとされ、明治2年(1869年)に政府(太政官)が東京(旧江戸)に移転して首都機能を失っている[7]。
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